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アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

ムスメ8歳 ~ラテンアメリカ的誕生会のご報告~

ムスメの誕生日からすでに4ヶ月も経っておりますが、ムスメ7歳半の記録を残さないまま今日まで来てしまった猛反省から、8歳の記録はきちんと残して置こうと思います。毎年ムスメの成長記録はものすごく長くなるので、今回は短めにテーマごとで区切ろうかと。

成長記録の前に、まずはお誕生会のご報告から。今年の1月の誕生日当日は日本にいたので、じいじとばあばと姉夫婦とともに祝い、お友達を招待してのお誕生会はロサリオに戻って来てから2月末にしました。

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前日に手作りしたケーキとアイシングクッキー。できるまでドキドキです。

今年もラテンアメリカ的誕生会で、テーマはムスメの希望通り女子限定の“スパ・パーティー“。こちらの国ではお誕生会をテーマに沿って祝うためのサービスが色々とあって、私もスパ・パーティーを専門にしている人に依頼することに。一番費用のかかる会場は、友人が経営する保育園を貸してくれました。

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当日は2人のお姉さんが諸々の道具持参で来てくれて、あっという間にスパ・パーティー風の会場がセッティングされました。そしてお友達みんなでゲーム→スパ第1部→おやつタイム→スパ第2部→ご飯タイム→ピニャータ→解散、と言う流れでパーティーを仕切ってくれました。 

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こんなに可愛い女子の世界を演出されちゃうと、さすがに盛り上がります。

私たち親が用意したのは①ケーキとクッキー(ワタクシの手作り)、②子供達のおやつ(暑かったのでアイスとポテトチップスなどの定番スナック)、③子供達のご飯(ピザとサンドイッチ)、④来てくれたお友達へのお返しのプレゼント(ハンドタオルとお菓子類)、⑤ピニャータ(お菓子入り)、⑥大人用のビールで、大人用のおつまみは友人たちがそれぞれ持ち寄ってくれました。

ちなみにこれがスパ第1部の様子。きゅうりの分厚さに目を奪われます(!!)。ゴロゴロして嫌じゃないのかなぁ(笑)、と思ってしまいますが、本人たちは分厚いきゅうりを乗せられてご満悦。おかし〜!!その後でマニキュアを塗ってもらったり、お化粧やペイントしてもらったり。おませちゃん全開の8歳児はこんなことが好きなのでした。

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こちらがスパ第2部。スパンコールで自分の仮面を作ったりという工作の時間もあり、作ったオリジナル仮面はお土産に持って帰ってもらいます。

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さて、一通りスパが終わっていよいよピニャータの時間です。ピニャータについては既に何度か書いた記憶もありますが、遡るとイタリア語の「ピニャッタ」から来ているそうで、元は主人が使用人に日頃の感謝を込めて土鍋に果物や食べ物を詰めて贈った習慣だったとか。今ではメキシコをメインに、中南米で子供のお誕生日にお菓子などを詰めたハリボテの人形をみんなで棒で叩いて割り、落ちて来たお菓子を拾い集めるというイベントです。 

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アルゼンチンでは小さな箱にお菓子を詰めて、お誕生日の子が紐で引っ張って蓋を開けてお菓子を落とすと言う、なんとも軟弱な“超なんちゃってピニャータ”が主流で、魂からメキシコ・ラブな私としては到底受け入れられるものではないため、ムスメのパパとお兄ちゃんのセドリックに頼んでハート形ピニャータを作ってもらいました。

 

バシバシ叩いて割れたピニャータからは、私が日本で買って来た珍しいお菓子がたくさん入っていたため、子供達は争奪戦に突入。こういう時、意外とムスメはいつもクールで、わずかなお菓子を手に持ってニコニコしながら見せに来ました。

 

お返しのソルプレサ(びっくり袋)は100均の刺繍入りハンドタオルと、うまい棒、コアラのマーチ、キティちゃんのチョコマシュマロ、サッポロポテトなどの小袋を詰めたもので、こちらも珍しいお菓子で喜んでもらえたよう。しかし、こんな駄菓子をスーツケースに詰めて地球を半周する自分が、なんだかものすごくおかしかったです。

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それにしても、毎年バタバタの誕生会準備です。前日のクッキー&ケーキ作りも、きちんとでき上がるまでは結構緊張してストレスためましたが、友人にフォローしてもらったりして、今年もなんとか仕上げることができました。

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こういうパーティーっぽい誕生会もあと1回ぐらいかな。10歳ぐらいになると、仲良しのお友達を招待してお泊まりっこ&映画館、みたいになっていくようです。お泊まりっこもそれはそれで大変そうですけどね(笑)。


ムスメの本当に嬉しそうな笑顔を見て、やって良かった、また来年も頑張ろうと心に決めた楽しい女子パーティーでした。

国際女性デーのデモ行進

去る3月8日、国際女性デーの日に、ムスメと一緒に人生初めて“デモ行進”なるものに参加してきました。今回参加を決めたのは、家族ぐるみで仲良くしている女友達数人が参加の意思を表明していたことと、今年の国際女性デーのデモで掲げられていたテーマが、ムスメを持つ母親としての私にとっても大事なことだったので。

 

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San Martín広場に集まる参加者

ちなみに、日本でデモ行進はあまり一般的ではありませんが、恐らくヨーロッパでも、こちらラテンアメリカでもそこここでしょっちゅう行われている日常茶飯事な風景です。メキシコ在住の時は毎週なんらかのデモで首都中心のアンヘル像周辺が占拠されたり道路封鎖されたりして、ただでさえ有名なメキシコシティのものすごい交通渋滞が、それこそ目も当てられない状態になっていたのを思い出します。だからこそデモが威力を発揮すると言うことなのでしょう。

 

さて、今年のデモ行進で最も重要だったのは、ちょうど国会で議論されていた妊娠中絶合法化法案を推進すること。つまり、女性が「堕胎」という選択肢を持つことを公的に認めるというものです。これまでアルゼンチンはキリスト教の圧力の下、堕胎は母体が危険に晒されている場合と強姦による妊娠の場合を除き法的に認められておらず、個人の意思で堕胎するには違法で処置をする闇医療にかからなければならないというリスクがありました。

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子供たちも大勢参加してお祭りのような雰囲気


こうして今、議論が活発化している中でも、アルゼンチン人の現ローマ法王フランシスコがアルゼンチンへ正式に書簡を出し、「命を守って(堕胎を認めるな)」と訴えているように、日本とは異なり多くの国では宗教との折り合いがあり、結論に達することが極めて難しい現実があります。

こうした状況について、チリ人作家のイザベル・アジェンデが講演会で意見を述べているビデオを友人がシェアしてくれました。「女性の合法的堕胎を反対している人々の中には、生涯家族も子供も持たない聖職者がいる。彼らに子供を持つこと云々の議論をする資格がそもそもあるのか」とばっさり切り捨てていて、そのあまりにも簡潔にして極めて正論な彼女の語りに、私も思わず頷いてしまいました。その他にもとっても共感できることを色々と語っています。スペイン語の分かる方、ぜひ見てみてください。

 


Conferencia de Isabel Allende

ただし、堕胎がいかなる状況下においても自由になるという新たな“領域”に足を踏み入れた先には、今の日本のように、妊娠中のテストで子供に何らかの疾患の可能性があると診断された結果、ほとんどの妊婦が堕胎を選ぶというような“命の選択”にいつしかたどり着く事になると、意識すべきだろうと個人的には思っています。私たち人類に、その選択肢が果たして与えられるべきなのかどうか、という事です。

 

また、女性であることが原因で殺害される“フェミサイド”(西語ではFemicidio) https://en.m.wikipedia.org/wiki/Femicide の撲滅ももう一つの重要テーマとされ、デモ当日に「私たちは、もうここにはいない、あの子たちの叫びです」と書かれたプラカードを掲げた若い女性グループを目にして、胸の詰まる思いでした。

アルゼンチンでは女性への暴力(主に性暴力)を伴う殺害件数が2008年から2017年までの10年間で2638件に達し、32時間ごとに女性が1人殺されているという計算になるほどフェミサイドは深刻な社会問題です。ヨーロッパ系移民の多いこの国ではフェミニズムも強く、ラテンアメリカ全域に今も根強く残るマチスモ(男尊女卑)への批判と、女性の抱える社会問題、仕事環境、暴力、権利について声を上げるため、この日のデモ行進には70を超える団体が参加しました。

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「参加して、女性であることを他の女性達と祝うと同時に、君たちの声を社会に聞こえさせて来るといいよ」と仲の良い男友達にも背中を押されての今回のデモ行進参加。リベラルな男性はデモに賛同してくれたり、実際に参加したりもしていましたが、そうでない男性(女性)も社会にはいるわけで、事前に警察に申請して合法的にデモ行進をしていても、道路封鎖にぶつかって怒りのクラクションを鳴らすオジサマたちも見かけました。もちろん、その都度、参加者からは失笑とブーイングの嵐でした。

おっかなびっくりの初体験は、蓋を開けて見たら子供達もたくさんいて、みんなで音楽に合わせて太鼓を叩いたり歌ったり踊ったりと、まるでお祭りのように賑やかで楽しく、子供も大人もそれぞれに考えることの多いひと時となりました。この突き抜けた明るさ、ポジティブな空気、そしてクリエイティブなパフォーマンスが日本のデモにもしもあったなら、もっと違うアプローチになるんじゃないかとも思いました。

志を共にする人達と集うことで感じられるものすごいパワーと勇気は、ムスメにもだいぶ強いインパクトを与えたようで、ちゃんと長時間歩けるか心配している私をよそに、お友達と一緒にガンガン元気に歩き通しました。そして太陽が傾いたころを見計らって二人でバスに乗っておうちに帰りました。満足気なこの表情を見てやってください。

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最後に、女性が合法的に堕胎という選択肢を持てずに闇医療にかかるリスクを描いたメキシコ映画『EL crimen de padre Amaro (アマロ神父の罪)』は、神の名の下でいかに理不尽で歪んだ現象が生み出されてきたかが分かる作品になっています。背徳の聖職者役を、世界の第一線で活躍するメキシコ人俳優、ガエル・ガルシア・ベルナルが演じているのも見どころです。

https://filmarks.com/movies/3304

 

 

 

『La Sal de la Tierra』写真家セバスチャン・サルガドを追う、ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー

先日、ムスメ誕生直後の乳幼児集中治療室で、それこそ命の恩人とも言えるほどお世話になった作業療法士さんと再会しました。8年ぶりに話をしてみたら、なんと近年ジャーナリストになるために勉強していたそうで、先日遂に卒業し、プロのカメラマンとしてのライセンスも取得したとのことでびっくり。今年中にはシリアを始め、いくつかの国へ取材旅行に行くつもりだと熱く語られ、経験を積んで安定しているはずの今の仕事を辞めてまで、報道カメラマンの世界へ飛び込んで行こうとする彼の情熱に驚かされました。

そんな彼に絶対に見て欲しいと言われたドキュメンタリー、『La Sal de la Tierra』(邦題は『セバスチャン・サルガド〜地球へのラブレター』)が圧巻の凄さだったのでご紹介します。名匠ヴィム・ヴェンダース監督が、今世紀最も重要なカメラマンの1人と言われるブラジル人報道カメラマンのセバスチャン・サルガドの生涯を、彼のインパクトある写真の数々を紹介しながら紐解いていくもので、2014年のカンヌ国際映画祭で上映されて以降、世界中で多くの賞を受賞した作品です。

もともとエコノミストだったセバスチャンが、いかにして報道カメラマンとしての道を見出し、その過酷な道を突き進んで行ったのかが語られ、1972年のエチオピア飢饉(1万人が死亡)、1984年の更なるエチオピアの大飢饉(100万人が死亡)、1991年のクエート、1994年に始まった20世紀最大の悲劇と言われるルワンダ大虐殺などの現場に長期間滞在し撮影を続けて行った彼が、人類の歴史を追って行く中で魂が壊れていくさまが、衝撃的なモノクロ写真を通じて見えてきます。

その救済としてセバスチャンが最終的にたどり着いた所はどこだったのか。被写体は何だったのか。彼の力強い写真の数々に圧倒されることは間違いありませんが、この映画を決定的に素晴らしいものにしているのは、ラスト30分の展開です。その結末が遥かに想像を超えたスケールだったため、見終えた時には言葉を失ってしまい、数日経った今もまだ感動で魂が震えているほどです。

人類は、地球上で最も暴力的で残酷で、地球のためにならない生き物なのだと言うことを、きっと私たちは覚えておく必要があるでしょう。だから、この作品は全人類に見て欲しい。DVDも出ています。

公式サイト:http://salgado-movie.com/about/

youtu.be

はてなブログからこんにちは

初めての方も、これまでずっと読んでくださっていた方も、はてなブログから初めてのご挨拶です。ワタクシamandaはラテンアメリカ在住16年のライター、翻訳家、日本語教師で、現在は8歳のアペール症を持つムスメとメス猫2匹と一緒に、アルゼンチン第3の都市、ロサリオで暮らしています。

昨日遂に思い立って、2009年にFCブログさんで始めたブログを、はてなブログさんへ移行しました。これまでは『アルゼンチン4人暮らし』というタイトルでしたが、生活にも気持ちにも変化があり、この機にタイトルも少し変えました。

新しいスタートを切るにあたって、まだまだページのデザインや機能面で調整が必要な部分が多く、しばらくは見にくいブログになってしまうかと思いますが、少しずつ改善していきますので、どうぞ長い目で見てやってください。

 

こちらアルゼンチンでは、政府と教員労働組合の賃金値上げ交渉でもめにもめ、教員ストで学校が頻繁に休校になるため、8歳のムスメも自宅で暇を持て余し気味。この煽りを受けて私もなかなか集中してお仕事をする時間が取れず、ストレスため気味。3月中の登校日は、なんとたったの10日間でした(!!)。

4月に入ってこのもめ事に決着がついて、ムスメが普通に学校へ通えるようになってくれたら、もう少しお仕事もブログもきちんとできるようになると期待しています。しばしお待ちを!!

 

ムスメ8歳のお誕生日会にて

 

 

 

 

 

 

凧を飛ばす

4月のある週末、ムスメとダーリンと3人でR市から車で40分のビクトリアという街へドライブしました。この日は朝から風が強く、出がけにふと「凧を持って行こう」と思いつき、セドリックが子供の頃によく揚げた古い子供用の凧を持って出発しました。

 

ビクトリアへ着く前に立ち寄った幹線道路沿いの空き地で早速試しに揚げてみたところ、どうも調子がイマイチで、一旦は高く上がるものの右に傾いて落ちてしまう。それを何度も繰り返しているうちに尾っぽの部分が無茶苦茶に絡まり、解くのにもものすごく時間がかかりそうだったので、諦めてそのままビクトリアへ向かいました。

 

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ビクトリアへ向かう道中はパラナ川の支流があちこちに流れ、緑に恵まれた綺麗な景色が続きます。

 

レストランで食事を待っている間、絡まった部分を全て解いて調整し直し、昼食後、レストランの敷地内にあるビーチ沿いの広場で再挑戦しました。

 

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この日はBoga(ボガ)という川魚を食べましたが、乱獲のせいか毎年魚が小さくなっていく気が、、、。

 

何度か失敗して最終調整を加えた後、凧が一気に青空へ駆け上って行った瞬間は、家族揃って思わず歓声を上げました。興奮したムスメが、お日様の光をいっぱいに浴びて砂浜の上を駆けったり飛び跳ねたりする、その躍動感も眩しかった。

 

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躍動感あり、へっぴり腰あり(笑)。こんなに単純な遊びがこんなに楽しいなんて。

 

青空を漂う凧がこれほどの高揚感を与えてくれるものだということを、私はすっかり忘れていました。この時思い出したのは、子供時代のお正月の朝です。キンと冷たい清々しい空気の中、凧を手にした子供達が家の近所の空き地に集まり、それぞれの凧を思い思いに飛ばす光景が不意に脳裏をよぎりました。普段はちょっと遠い「空」という空間が、突然自分の手の届く世界になる喜びを、凧を揚げる子供達みんながきっと感じていたのだと思います。

 

この日、力強く空へ駆け上がる凧に、私の魂も乗って行くような言いようのない興奮を感じ、心が解放されほっと楽になるような不思議な感覚を覚えました。凧上げの由来には魔除けなど色々とあると言いますが、単純に”浮世の鬱憤ばらし”という面もあったのかもしれないと、ふと思いました。

 

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凧、と言えば、私にはもう一つ特別な思い出があります。小学校低学年の頃、近所のお習字教室に姉と2人で通っていたのですが、このお習字の先生のご主人が凧作りの職人さんで、30人ほどずらっと並んでお習字をしている後ろで、いつも古風な和凧を黙々と作っていたのです。彼の無駄のない手さばきで、筆でダイナミックに描かれた人物画を載せた和紙の凧が仕上がって行く様はワクワクするもので、お習字をしながらもこっそり彼の動きを目で追っていた幼い自分を思い出します。

 

記憶の中のお教室はなぜかいつも冬で、ジーっという石油ストーブの音と、サラサラと紙の上を走る筆の音だけが響く静謐な空間の中、柔らかい墨の匂いと、畳に胡座をかいて黙々と作業する彼の姿を今でも鮮明に思い出すことができます。

 

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こうして自分の子供時代に想いを馳せると、あの頃の自分は今よりもずっと地面にも空にも近かったことに気がつきます。足元を歩く蟻を追いかけて時間が過ぎ、ツツジを摘んで蜜を吸い、シロツメクサで花冠を編む。団地の角の茂みに基地を作って隠れ、公園の裏山に穴を掘って宝物を隠し、ブランコを高く漕いでは空へ飛んで行く自分を夢想し、そして凧を飛ばす。春先の池のオタマジャクシ、雨の日の水たまり、紫陽花の影のカタツムリ、朝露の光る芋の葉っぱ、金木犀の黄金の絨毯、そんな自然の中で見つけるもの全てがキラキラしていて驚きに満ちていた。

 

時代が変われば楽しみも変わるのはしょうがないこととは思いつつ、周囲を見ていて、今の子供達がどこに行っても携帯で遊んでいるのはなんとも残念で、そしてもったいないことだなと思ってしまいます。特にアルゼンチンでは治安の問題から、子供達が自由に外で遊べないので余計です。ムスメがいつか自分の子供時代を振り返った時に、懐かしく思える自然の風景や匂いや感覚を持っていられるように色んな経験をさせてあげたいなと、凧を見上げて走り回るムスメを微笑ましく見ながら改めて思いました。

 

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走る走る走る。凧揚げができるような電線のない広い空間が減ったことが、日本で凧揚げが廃れてしまった原因だとか。

 

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結局この日は強い風に吹かれながら、何時間もの間ビーチに座って飛び続ける凧を眺めました。ムスメも疲れ知らずに空を見上げ続け、途中からは自ら糸を引いてビーチ中を駆け回っていました。普段は転ぶのが心配で、こんなに手放しで走らせてあげることができないのですが、砂浜なら転んでも大丈夫という安心感がありました。

 

そして私も、いつもなら風の強い日は嫌いなはずなのに、凧を見つめているだけで風の強さがちっとも苦じゃなかったことに後から気がついて驚きました。むしろ、風が強いことが特別な特典のように素敵なことに思えたから不思議です。もしかすると凧上げは、自分の力では対抗できない厳しい自然現象を少しでも楽しく感じられるような工夫であったのかもしれません。

 

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こうして楽しいひと時を過ごしながらも、ふと空に浮かぶ凧の糸を切ってあげたい衝動に駆られたのは、私の性格的なところでしょうか。せっかく空高く舞い上がっているのに、糸に繋がれてそれ以上高く飛べない凧がなんだか不憫に思え、どこまでも自由に飛んで行けと思ってしまう自分がいたのです。

 

いつかムスメが空高く羽ばたいて行く時にも、果たして同じように思えるのかな。

 

 

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おまけ① ビクトリアの教会。

メキシコのウルトラバロックには敵いませんが、小さな村の教会は小ぢんまりとしていて綺麗でした。

 

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おまけ②ビクトリアの町役場。コロニアル調の美しい建物で、ただ今一部修復中。

それにしても父とムスメ、二人して細長くてスパゲッティみたい。

7年目の再スタート その3.世界中の通訳者に敬意を込めて

シリーズ第3弾の今日は、人生初の逐次通訳の体験談です。実はワタクシ、名ロシア語通訳者で、類稀なる文筆家としても活躍された故米原万里さんの大ファンで、彼女の残した数々の名著を通じて通訳者に欠かせないものは言語の知識だけでなく、度胸や開き直りと理解していました。なので、臆病でハッタリの効かない私、しかも妙に完璧主義で少しの失敗で自己嫌悪に落ちる自分には絶対に向かないお仕事と常日頃から思っていました。私のようなタイプは、自宅で一人、納得のいくまで悩んで練って仕上げられる翻訳のお仕事の方が向いていると分かっていたのです。

ところが、2月上旬にこのお仕事の話があった時、即座にお断りしたにも関わらず友人に粘り強く説得され、自分試しと、”怖がらない”という今年の誓いを守るため無謀にも引き受けることにしたのが、この大変な経験の始まりでした。2時間の講演会は3月21日にR市の国立大学キャンパス内で開催予定で、テーマは『日本:平和への道』、講演者として日本から著名な歴史家であるI先生がいらっしゃると聞かされました。

2月はムスメの誕生日会とお仕事の面接があったので準備はできないと分かっていましたが、3月21日開催なら面接終了後にも1ヶ月の準備期間があると考えました。在アルゼンチン日本大使館が間に入って調整していたため、ご担当の方にも事前に講演原稿をいただけるよう予めお願いをしておきました。

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さて、前回書いたお仕事の面接が2月24日に終わり、さっそく通訳の準備に取り掛かかった私がまず真っ先にしたのは、ネットで講演者であるI先生の講演動画を探すことでした。Youtubeで2、3本の動画を見つけ、I先生が高齢の方で、ゆっくりと優しい穏やかな話し方をされる事が分かって少し安心しました。次に、I先生のインタビュー記事や、他にも似たようなテーマの論文や記事をネットで探して読み漁り、頻出単語や必要と思われる語彙を片っ端からピックアップしてリストを作りました。

そもそも講演テーマである『日本:平和への道』とは何を意味するのでしょう?この時点での私の予想は、第2次大戦後前後の日本について説明し、特に戦後どのような歩みを遂げて日本が平和国家として国際社会の中で存在感を持てるようになったのか、というような内容でした。ところが、実際に動画や論文の内容を見てみると、歴史を把握するにはある時代だけを切り取って話すだけでは事足らず、例えば、第2次世界大戦におけるドイツをよりよく理解するには、第1次世界大戦後にドイツに課せられた莫大な戦後賠償や、『ミュンヘンの融和』と呼ばれる歴史的事実にまでも遡る必要があることなどが薄っすらと分かりました。つまり、守備範囲がものすごく広く、I先生がいつの時代のどんな逸話を引き合いに出すか分からないという事です。

また、『平和』について語るためには、人類史上の各戦争名や戦略名、各種の国際条約の正式名称、各国関係者の名前や地名、あまたの国際機関名とその略称、果ては戦闘機や空母や弾道ミサイルなどの武器の名称なども必要語彙としてスペイン語訳を網羅する必要があることが分かり、この果てしない準備作業に途方に暮れることとなりました。これら全てを端からピックアップしていくと、あっという間に500以上の語彙が単語リストに並びました。どれだけ調べても、覚えても、まだ足りない。それが準備期間中に生じた脅迫観念で、だからこそ開き直りや度胸が最終的に物を言うのだと身をもって知りました。

こうなると頼みの綱は講演原稿しかないと大使館に何度か確認をしたところ「講演者は原稿を用意しない」というまさかの回答が届き大ショック。そもそもこのお話を受ける時点で、事前に原稿を手に入れてもらうという条件を付けていたので、この展開には正直かなり凹みました。後から思ったことは、きっとプロの通訳者の方なら、よりよい通訳(講演会)のためにせめて話題とするトピックの箇条書きだけでもと粘り強く交渉されるのかもしれないということ。でも、悲しいかな素人の私にはどこまで要求できるものなのか、すべきものかという基準も分からず、参考までにと大使館からペラっと送られてきた過去の講演原稿数枚に目を通し、単語を拾い上げて端から頭に叩き込む作業を始めたのでした。

そしてピックアップした全ての語彙を分野ごとに分けてボイスレコーダーに日本語で吹き込み、再生して単語を聞いた瞬間にスペイン語に訳せるよう口頭練習をしたり、当日のシュミレーションを兼ねて動画を使って訳出の練習をしたりしました。通訳者が取るメモは横方向ではなく、ノートに縦線を引いて仕切りを作り、下方向へ取るという基本的な知識も今回初めて学びました。これは横方向にメモを取ると、改行の際に動かす眼球の動きが大きく、1秒を競う訳出作業には不向きである、という理由からだそうです。ナルホド。なにせ本格的な通訳の訓練経験が全くないので、こうした準備も完全に自己流で、果たしてこんな方法で正しいのかどうなのかもよく分からないまま、必要と思えることは片っ端から全部やった感じです。

幸いだったのは、講演テーマが私にとって興味あるものだったこと。今回の準備を通じて、戦争にまつわる歴史や人類の行動パターンを分析した上で、『平和』が維持される条件とは何かについて勉強ができたことは大きな収穫だったと言えますし、憲法9条や改憲について、今まで以上に明確な答えが自分の中で見つかりました。平和は、「平和平和」と唱えて武力を放棄をするだけで実現するものでは決してないと、歴史的に既に証明されていたのです。

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こうして通訳の準備を毎日朝から晩までしている間にも、急ぎの翻訳のお仕事が引っ切りなしに入り、3月は図らずとも目の回るような多忙な日々となりました。それでも3月に入ってからムスメの新学期が始まったので、これで午前中の4時間は仕事ができると期待していたものの、現行政権と教職員組合が給与を巡って大規模衝突し、学校は例年以上に教員ストライキの嵐で休校続き!!スト&祝祭日で週に2日しか学校がないような状況の中、3月から週2回来る予定だったシッターさんが突然2週間もバケーションを取って不在となり(!!!)、更に追い討ちをかけるようにムスメが月半ばからガタガタっと体調を崩し、遂には2週間もの長きに渡って自宅療養することになってしまいました。

泣きっ面にハチとは正にこのこと。ありとあらゆる悪条件が重なって、通訳当日までの数週間はまるで障害物競走のようでした。日中は4時間ごとに高熱を出すムスメの看病に追われ、ムスメが夜9時過ぎに寝てくれた後にやっと仕事に取り掛かり、夜中の2時3時にようやくベッドに潜り込めたと思ったら、朝6時には抗生物質を飲ませるためにムスメを起こしてまた1日が始まる、そんなとってもハードな毎日でした。

こうしてフラフラになりつつ迎えた公演日前日。講演内容について明確な事前通知が何もなかったため、せめて本番前日にR市に到着予定だったI先生と事前打ち合わせをしたい旨大使館に申し入れていましたが、いざ打ち合わせに向かうため家を出ようとしていた夜7時に宿泊先のホテルから連絡が入り、I先生は大変お疲れのため打ち合わせはキャンセルし、この電話にて翌日の講演会のトピックについて説明したいと言われました。

そこでI先生から早口に告げられたトピックは、半分が全く予想外の内容(!!)。電話口でダーっと説明された事項をノートに書き付け、電話を切った後には呆然とする余裕すらなく、やるしかないと臨戦態勢に入った自分がいました。9時過ぎにムスメを寝かしつけてからパソコンに向かい、守備範囲から漏れていた歴史についてものすごい勢いで調べ始め、そこで出てきた新出語彙を拾ってリストを作り、全て暗記する時間はもうなかったため、どうしても覚えにくい物はテクニカルメモとして当日目の前に置いておくことに決めました。それにしても、プロの方ならこんな条件でも通訳できるのでしょうか?私には神業のように思えましたけど、、、。

ハッと我に帰ると、夜中の12時過ぎでした。作業の手を止めムスメの様子を見に行くと、なんと再び40度の高熱。解熱剤だけでは熱が下がらず、洋服を脱がせてぬるめのお風呂に入れようやく38度台まで下がった頃に往診の救急医が自宅に到着。私にはまだまだ調べなければならないことが残っていましたが、このお医者様がなんとも熱心な方で、切った玉ねぎを枕元に置いておくと良いとか、擦ったリンゴの効力とか、自然療法について熱弁を振ってくださること1時間(!!!)。ついに痺れを切らした私は、ダーリンに後を任せて仕事に戻り、結局この日は朝4時近くまで準備に追われました。

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さて、寝不足のまま到着した国立大学のキャンバスは教員ストライキで講義もなく、がらーんとした空っぽな雰囲気でした。それでも、エルサルバドルで勤めていた国立大学を思い出させる壁いっぱいの落書きアートやアバンギャルドな空気はどこか懐かしく、早めに到着した生徒さんたちとおしゃべりしながら講演者と大使館の方の到着を待ちました。途中、大学関係者が来てテーブルなどをセッティングし始めましたが、その時に分かったのはマイクが一本しかないということ(汗)。講演者と私がそれぞれマイクを持って交互に話すことをイメージしていましたが、ここでは一本のマイクを渡し合いながら話さなければならず、通訳を伴った講演会をする上での最低限の条件も揃っていない印象でした。

結局、I先生が会場に到着したのは講演会開始直前。新聞社のインタビューや大学の学長とのミーティングなどでバタバタと過ごされたようで、私とは挨拶もままならないまま突然講演会が始まりました。極度の疲労と緊張で迎えたその瞬間はなんだかちっとも現実味がなく、「えー、こんなんで始まっちゃうんだ」とどこか不思議ですらあり、まるで夢(悪夢?)のようにフワフワした感覚でした。

私がこれまでの人生でこんな風に緊張した瞬間は何度かあります。市民会館の大ステージで毎年やらされた小学校の時のピアノの発表会。小中高のリレー競技で第一走者だった時。高校3年間の8キロのマラソン大会のスタート時。高3の文化祭でマクベス夫人をやる羽目になった舞台、姉が主催していた劇団の公演で女優もどきをやることになった時。特に舞台の経験は強烈で、今でも舞台袖で待機しているのに全くセリフを覚えていないという恐ろしい夢をよく見ます。

こうしてあれよあれよと始まった講演会は、講演者の発言のキーワードを震える手でメモし、渡されるマイクを受け取って訳出してと必死で、途中、大使館から付き添いできていたS氏から「完璧さよりも大きな声でお願いします」と声を掛けられたものの、そんな助言も頭に入らず前半の40分が終了しました。ホッとして全身が弛緩した休憩時間でしたが、そこで知らされたのは、音響の問題で後方の席の人たちには私の声は全く聞こえていなかったと言う残念な事実でした。私が座らされた席までマイクのコードが届かなかったため、マイクをしっかり受け取れずに前傾姿勢になっていたことも、声が拾われなかった原因と判明。座席を変えてもらったり、マイクテストをしたりと、休憩返上で調整して後半に備えました。

この休憩中に大声を張り上げて音響チェックをしたことでだいぶ緊張がほぐれました。あんなに勉強したのに、前半聞こえなかったと言われて本当にがっかりしたこともあり、後半40分は怒鳴っているのに近い状態で訳出し、それが開き直りにも繋がったのか、気づいたら手振り身振りで若干ノリノリの自分がいました。思い描いていたスマートな通訳者のイメージとは遥かにかけ離れていましたが、でももうこれが今の私の精一杯、という半ばヤケクソ感もあったかもしれません。

それでも何度か危機は訪れました。I先生のお話がだいぶ横道にそれて、ある弾道ミサイルの精巧さを示すために使用されているハイテクの詳細についてお話を始めた時がそれ。弾道ミサイルの機能を詳しく説明するような語彙は私にはなく、しかもだいぶ時間が押しているにも関わらず、その部分の先生のお話がとっても長かったため、思い切ってかなり割愛しました。

別の危機が訪れたのは講演会も終了間際のこと。講演に熱が入り過ぎたのか、I先生は隣に通訳がいることをお忘れになった様子。それまでは1段落お話しされたら私にマイクを渡してくださって私が訳出、というリズムでやっていたはずが、先生のお話が止まらないっ!!!最初は「先生、ちょっと長いな」と思っていた私も、メモが2ページを突破した時には「マズイ」と思いました。そこで「先生」と声をかけてみたのですが、先生は私をチラリと見てニッコリ微笑み、そしてなんと、そのままお話を続けるではありませんかっ!!!会場の空気は一気に張り詰めました。そう、気がつけば聴講者の方達がみんな「この通訳者はどうすんだべ」という心配顔で私を見つめていたのです。

更にしばらくの間熱く話し続けてから、I先生がはっと我に返り「すいません!」と私にマイクを渡してくださった時には、私のメモページは既に3枚を突破していました、、、。訳そうと思えば全文訳せないこともないと思いましたが、既に講演終了時間も大幅に過ぎていて、大使館の方もしきりに時計を見ながら心配顔だったため、一瞬迷った後にかなり端折って訳すことしました。

先生の講演はこれにて終了し、ヘナヘナと力が抜けたのもつかの間。最大の危機はこの後にやって来ました。そう、「質疑応答」の時間にです。ぼやけた音声のマイクを握った聴講者がスペイン語で先生に質問し、私がそのスペイン語を日本語に訳さなければならなかった瞬間、私の疲れ果てた思考が完全に停止しました。後から冷静に考えたところ、一つは、音響の問題でスペイン語がよく聞き取れなかったこと。いつも思うのですが、母国語ならどれだけ小さい音でも、雑音があっても聞き取れることでも、外国語だとそうはいかない、否、私のスペイン語レベルではまだまだできないんです。もう一つは、私が今回練習したのは「日本語→スペイン語」訳であって、突然その逆をやろうとしたところ思考停止に陥った、という事のようです。それは私が己の限界、力不足を身にしみて悟った瞬間でもありました。

この時、凍りついた私を見て飛んで来てくださった助っ人が、大使館からいらしていた若い日本人の付き添いのS氏でした。S氏のスペイン語→日本語訳のなんと流暢だったこと。今回やりとりをさせていただいた大使館のご担当のT氏もそうでしたが、やはり大使館でお仕事をされている方というのは皆さんさすがに優秀だとしみじみ思いました。結局質疑応答は全てS氏が訳してくださり、こうして1ヶ月に渡り私を悩ませた講演会がなんとか無事に終了しました。蓋を開けてみたら、質疑応答をした現地の方の中には公認通訳士をされているような方もいて、こんな通訳のプロを前にして素人臭い仕事をしてしまったと赤っ恥をかきましたが、それでも私的には、”数々の障害と悪条件と恐れを前に逃げ出さなかった”という一点において自分を褒めてあげたい、という気持ちで一杯でした。

タクシーに乗り込み、国立大学を後にしてほ~っと深いため息をついた時、ムスメから携帯にボイスメッセージがはいっているのを見つけました。耳元で「ママ、だーい好き。早く帰って来て。おみやげ買って来てね~」と話すムスメの可愛らしい声に涙が出そうになると同時に、疲れた体と心が暖かく包まれるような気がしました。途中でタクシーを降り、家の近所でムスメにプレゼントを買って家に戻り、ぎゅーっと抱きついて来たムスメを見て、この1ヶ月間は一緒にいても一緒にいなかった自分を実感しました。否、遡ると2月に入ってからずっと、私の意識はだいぶ遠くに行っていました。ムスメもそれを感じたのでしょう。ようやく戻って来た私に嬉しそうにじゃれつき、離れようとしませんでした。

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この時まだムスメの熱は続いていて、その週末、3つ目の抗生物質で快復に向かっていたムスメの症状が急遽悪化。月曜日には再び高熱と共に耳の激痛を訴えるようになり、肺炎球菌が引き起こす急性中耳炎と診断されて、4つ目の抗生物質を処方されることとなりました。アペール症のお子さんが中耳炎になることはとても多いのですが、ムスメはこれが初めてでした。今回、よくあるウイルス性の風邪と診断されていたものが悪化し、2度も深夜に救急窓口へ連れて行ったものの肺炎一歩手前にまでなり、更に中耳炎まで引き起こしてしまったのは、私の精神的な”不在”が大きな原因ではなかったかと、後から猛烈に反省しました。

この7年間、付きっ切りでムスメを見ていた私は、些細な変化にも見逃さずに大病を防げていましたが、今回は仕事の山とストレスで見逃してしまった”信号”が沢山あったと気がついたからです。この時思ったのは、もし首都でお仕事をしていたらどうなっていただろう、ということ。もう7歳だし、とどこかで安心していましたが、そこはやはり健常児とはちょっと違う7歳。この経験を通じて、ムスメの面倒をきちんとそばで見守りながら、私らしくバランスのとれたお仕事をしていく必要性を心から強く感じることとなりました。

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通訳というお仕事に関しても色々と思うことがあります。ラ米滞在も15年となり、元々語学が好きなこともあって、スペイン語ではもうコミュニケーションに困らないと思っていましたが、その程度の語学レベルと通訳者の方達のそれの間には果てしない乖離があることは重々分かっていました。ですが、今回実際に通訳に挑戦させていただいて、誰かの意思を漏らさず汲み取り瞬時にして正確に他者へ伝えるという特殊技能で”言語の壁をすり抜けて自由自在に行き来する”という神業は、生半可な覚悟では成せないということを痛感しました。

私が今回なんとか準備できたのは語彙力ぐらいでしたが、それはもちろんのこと、例えば医療通訳をするのなら医療行為についても理解していなければ、単なる単語の羅列だけでは決して正確な内容は伝えられない訳で、通訳者にはあらゆる分野における膨大な知識と情報と理解力が求めらると言うことです。加えて瞬時の判断力と機転、どんな場面でも動じない度胸、常に最良のパフォーマンスが提供できるような精神力と集中力。これはもう、アスリートと同じだな、と思いました。

グローバリゼーションと言って今こうして世界がどんどん繋がっていけるのも、地球のあちこちで日々地道な努力を重ね続け活躍しているこうした偉人達がいるからだということに改めて思い至り、故米原万里さんと世界中の通訳者の方達に心から敬意を表明したい思いで一杯です。

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こうして私の怒涛の2月3月は、様々な学びと気づきをもたらしてくれた後、嵐が過ぎるように去って行きました。今はどうかと言うと、あれほどすごい量だった翻訳仕事はある日を境にピタッと止まり、増える見込みだった日本語の生徒さんも、結局蓋を開けてみたら増えるどころか減って、あれーっと肩透かしを食らった感は否めません(笑)。

翻訳はどうしても仕事量に波があって、何らかのプロジェクトが始まる時とか、定期報告書を出すタイミングなどに一気に増えますが、それが過ぎると寂しいほど何もなし。日本語クラスも安定感の無い仕事で、生徒さんはお仕事や学校が忙しくなったりすると休んだり辞めてしまったりとなかなか継続が難しい。こうして、気がつけば”振り出しに戻った”自分がいますが、私の中の基準がはっきりした今、以前より的を絞ってお仕事の模索をしていける気がしています。

購入してから6年間ほど放置していた我が家のリフォームも始めました。自由になる時間が少ないので文字通り1ミリずつですが、壁のペンキを塗ったり、古い家具を修理したり、ムスメの部屋用にカーテンやベッドカバーを縫ったりしています。やりたいことは山ほどあるのに予算と時間がほとんどないと愚痴りながらも、この街に住み続けると決めた今だからこそやるべき事が明確になったという満足感と落ち着きはあって、それが今年に入ってから色々と挑戦した結果得られた成果でしょうか。

『7年目の再スタート』シリーズはこれにて終了。そして気づけばもう5月も末!!既に1年の半分が終わりつつある事実にびっくりですが、2017年の後半戦へ向けて、目の前のこと一つ一つに対して丁寧に向き合って行きたいなと思います。

7年目の再スタート その2. 面接日、それは気付きの1日

今日は私が昨年から散々悩んでいたお仕事の話です。今回応募を決めたのは、以前お仕事をしたことのある某ODA実施機関のブエノスアイレス事務所の公募でした。この機関のお仕事は、人材育成や技術移転等を通じた途上国の底上げや、社会的弱者のためのプロジェクトの実施などで、単にお金を稼ぐ手段としてではなく、私にとっては生き甲斐や自分の存在意義にまで繋がる仕事でもあり、いつか戻りたいと長年思っていました。それが、ムスメの手術が一段落したこのタイミングで滅多に出ない現地事務所の公募が出たことに凄い縁を感じ、また偶然にも、現在の所長も昨年まで所長だった方も、ボリビア事務所時代の私の元上司の方達で、個人的に声をかけていただいたことも背中を押された理由でした。

ところが、履歴書を提出した数週間後、通達された面接日はなんとムスメの誕生パーティー当日(!)。しかもその連絡をいただいた日の朝に、パーティー会場に既に費用を支払ってしまったという何ともタイミングの悪いことになりました。ここら辺から既に、”仕事と家庭の両立”というテーマがちらほらと見え始めてはいたんです。幸い面接日はパーティー翌日に変更していただけましたが、夜9時にパーティーを終え、翌朝早朝には長距離バスに乗って首都に上京するという慌ただしい予定となり、緊張感が一気に高まりました。2月中はこうして誕生会の準備を進めながら、面接の準備にも追われることとなりました。

さて、ムスメの誕生会を終えクタクタになって帰宅して、さて寝ようというところでムスメがまさかの号泣というびっくりな展開となったことは前回書きました。激しくしゃくりあげながらムスメが話すことをよくよく聞いてみたところ「ママが遠くに行っちゃったら私は何にもできない」「お願いだから行かないで」「私と一緒にいて」と。ムスメの涙は、生まれて初めて私と丸1日離れることへの不安が一気に炸裂したためと分かり、胸が張り裂けそうになりました。あんなに楽しそうだったパーティーの後での滂沱の涙は私にとってとても衝撃的でしたし、ムスメをここまで追い詰めてしまったのは何を隠そう私の責任でもあり、猛烈に反省しました。そう、今回の応募を決めてから、仕事をするかもしれないこと、そうなったら首都に引っ越すかもしれないことなどをムスメにも少しだけ話していたんです。

実は面接前の1週間、別の形でもムスメの不安は現れていました。連日おトイレの失敗を繰り返していたんです。最初はなぜだか分からず、下着を汚すたびに「なんでおトイレに行かないの?」と怒っていたのですが、これと全く同じことが1度目の日本帰国の前にもあったことを訓練士さんから指摘されてハッとしました。ムスメは精神的に不安定になると”そういうやり方でSOSを出す”と言われ、初めて客観的に私の首都上京や仕事などの可能性がムスメに与えている影響について思い至りました。それでムスメと向き合ってきちんと話をしてみたところ、その時は「ママがブエノスに行っても平気」「心配しないで」と気丈に振る舞っていたのですが、胸に秘めていた不安が前夜になって遂に抑えきれなくなったようでした。

7歳にもなって、と言ってしまえばそれまでですが、これまで何度も辛い経験を乗り越えてきたムスメにとって、私たちの関係は母と子以上に「命綱」的な要素が強く、距離的に丸一日離れることや、その先に待っているかもしれないもっともっと大きな変化に、ムスメが不安を感じていたのはむしろ当然のことでした。泣きじゃくるムスメを抱きしめてあやし、ようやく寝入ってくれたのが11時半ぐらいのこと。緊張と極度の疲労で、私が眠れたのはそれから更に後のことでした。

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面接当日は5時に起き、シャワーを浴びてゆっくりコーヒーを飲み、荷物をチェックして、7時過ぎには家族が寝静まる家を後にしました。疲れてはいましたが、数年ぶりにタイトスカートをはき、アイロンの効いたシャツを着て、ヒールの靴でカツカツとターミナルを歩くのが嬉しく、ちょっぴり誇らしくもありました。この日を迎えるまでに、最近の国際支援の流れや日本のODA事業についてなど勉強して準備し、それらをまとめたペーパーをバスの中で読み直したりしながら、12時に首都に到着。2時の面接前に、同じくこの面接を11時に受けた首都在住の日系人の友人とスターバックスで待ち合わせて一緒に昼食を摂り、その後、面接会場へと向かいました。

面接では元上司とも12年ぶりに再会し、和やかな雰囲気で話しができましたが、お仕事の内容は新プロジェクトの責任者と説明を受けた途端、気持ちが大きく揺らぎました。私のこれまでの経験上、今回の募集内容はあくまでもプロジェクトのアシスタント的業務になるだろうと想像していて、まさか責任者という大役を提示されるとは思ってもみなかったからです。更に、少人数の事務所であるため仕事量は多く、残業は日常的に当たり前、国内出張の頻度も高いとのことでした。ここまでは内心冷や汗をかきながらも、自宅残業をするなりしてなんとか乗り切れるかもしれないと考えたのですが、就労条件として、子供が病気の際に休めるかどうかと聞いたところ、それは非常に難しいと即答され、これが私の中で決定打となりました。

働く母に対する日本の企業や組織の対応がどのようなものなのかよく知らないのですが、アルゼンチンでは子供が病気の時などは働く母親が欠勤しても認め、通常通りの給与を支払うことが法律で義務付けられています。それはつまり、社員や職員はその任務以上にいざという時は母親であることが尊重されるということでもあります。事務所はアルゼンチンにあったとしても日本の組織である以上、ここら辺の対応はどうかなと懸念していたところ、やはりアルゼンチン流とはいかないことが分かりました。

いつかは働き出す私の横で、ムスメが自立していかねばならないことは明白でしたし、それでも一緒に過ごせる時間が極端に減らないように、なるべく自宅で仕事するような方向で考えてはいましたが、最も気の弱くなる病気の時に私が出張でいない、と言うような事態は絶対に経験させたくない、そこまでムスメを犠牲にはできないという思いと、昨夜のムスメの泣きじゃくる姿が頭をよぎり、その瞬間、迷っていた自分の気持ちに決着がつきました。思っていたよりもずっとあっさりとはっきりと、明確な答えが降ってきた瞬間でした。今の私には、このお仕事はまっとうできない。これは私がすべき仕事ではない。

その後の受け答えは力の抜けたものとなりました。アピールすべきところも笑顔で「はい」と答えるだけの私に、きっと面接官の方たちも拍子抜けしたことでしょう。取りあえず穏やかな雰囲気の中面接は終了し、1週間以内に指定のテーマについて論文を書いて送り、そこで選考過程は終了となるはずでした、が、私はこの時点でもう論文は出さないこと、選考から辞退することを決めていました。

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この日、ブエノスアイレは体感温度38度の猛暑で、朝には誇らしく感じたフォーマルな服も、バスターミナルに着く頃には汗でぐっしょりと濡れて不快になりました。数年ぶりにはいたヒールのせいで足は地獄のように痛み、ちょうどカーニバルの連休初日の金曜日だったため、ターミナル周辺の大混雑にもうんざりしました。面接前には首都でのお洒落な生活に想いを馳せたりもしましたが、愚かな私はそれが幻影だったことにこの時初めて気づき、R市ののんびりした空気が急に懐かしく感じられました。凄い人出で帰宅のバスのチケットも取れず、痛む足を引きずって散々歩いて見つけたチケットも出発は3時間半後。人で溢れかえる蒸し暑いターミナルのベンチで一人じっと、色んな想いを抱えて出発を待ちました。

この日は私にとって図らずとも”気づきの一日”となりました。例えば、若かりし頃一人旅が大好きだった私にとって、数年ぶりのこの”一人上京”はきっと楽しいものになるだろうと思っていたのに、蓋を開けてみたら全然楽しくなかったんです。特に帰りのバスの中ではものすごく退屈しました。終わりのないパンパ続きの風景が、覚めることのない虚ろな夢のようで、数時間の道のりが永遠にも感じられました。それはきっと、いつも隣にいるはずのムスメがいなかったから。その事実に私が一番びっくりしました。残業だって以前はむしろ好きでした。ボリビア時代には夕方事務所が閉まって、電話や来客で中断されることのない夜間に集中して仕事を片付け、同僚たちと晩ご飯を食べに行ったりするのが楽しかった。でも、それは独身時代だったからできたこと。今となっては、履き慣れたはずのヒールで足は痛み、シワが気になる服も着心地が悪かった。いつの間にか色んなことが大きく変わっていたことを、恐らく初めて認識したのでした。

この話しをこちらの友人にしたら、「面接に行ったことで、これまで閉じることのできなかった過去をようやく閉じられて良かったね。それはとても必要なことだったと思うわ」と言われ、深く納得しました。本当にその通り。いつでも戻れると思っていた過去は、そう簡単にはもう戻れない場所になっていた、否、もう”戻らなくてもいい場所”にもなっていたのかな。必要なものはもう全部持っていた。そのことを理解するのに今回の経験はきっと必要だったのです。

夜10時過ぎにR市に着いてバスを降り、自宅に向かって歩いていたら、偶然私の親友のナタリアが子供達と車で通りかかり「アマンダー!!」と家族皆んなで声をかけてくれました。この小さい”村っぽさ”に心が緩み、ああ、ここが私の場所なんだなぁとしみじみ。家のドアを開けると同時に飛び出してきたパジャマ姿のムスメが愛おしくて、抱きついて離れない我が子を抱っこして2階に上がり、寝かしつける幸せに身も心も満たされました。「ただいま」。優しい顔でウトウトと眠りにつくムスメにそっと言いました。それはここ数ヶ月の間、気持ちまで遠くに行っていた私が、やっと戻ってきてムスメにかけた言葉でもありました。

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翌朝、家族が皆んな出かけた後、お気に入りの音楽をかけて一人机に向かい、詩の翻訳を始めました。ブエノスアイレスから戻るバスの中でお仕事の依頼があったのです。静かな家で、大好きなKevin Johansenを聴きながら、天井のファンの涼しい風を感じつつ詩の翻訳をする。ふと目をやると、窓から見える庭の緑がとても綺麗で、心の底から「ああ、これが私の幸せなんだな」と思いました。私が探すべき道は、首都に引っ越して猛烈に仕事をする方ではなく、”こっち”の方だったんだと。自分が既に持っていたものや環境が、いかに素敵なものだったかをやっと認めてあげられた気がしました。

不思議なもので、この面接日を境に連日翻訳の仕事が大量に舞い込むようになりました。また、特に探したわけでもないのに、突然日本語のプライベートレッスンの依頼が立て続けに3件入るなど、「首都へは引っ越さない。R市に残る」と決めた瞬間に、R市でできるお仕事が雪崩を打って姿を現したようでした。クリスチャンの友人曰く「神様が、”ここがあなたの場所だよ”と示してくれている」んだそうで、特に信仰を持たない私でも、解釈としてはその通りかもしれないと思いました。

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告白すると、私の中には常に二分される自分がいました。物作りが好きで美大に進み、バックパックを背負ってアジアを放浪する自分と、一夜漬けでもそこそこ成績も良く、きちんとオフィスで責任のあるお仕事をする自分。フラフラと一人旅をしていれば「こんなことをしていていいのか」という内なる声が聞こえ、オフィスでデスクに向かっていると「本当にここが自分の場所なのか」という疑問が湧く。どちらが本当の私なのか、どちらに向かって歩いていくべきなのかこの歳になるまで分からず、ずっと迷っていました。だから今回の、R市に残るか首都で仕事をするかと言う選択も、ある意味この二つの自分の間で揺れ動いた結果の迷いだったように思います。

子供の頃から何をやっても割と器用にできて簡単に及第点を取ってしまい、その結果すぐに飽きてしまう傾向がありました。周囲からは何でもできる人と思われたことも多かったけれど、それは決して事実ではなく、実は何をやっても中途半端な自分を心の中では恥じていました。「器用貧乏」という言葉を聞くと、今でも胸が痛むのはそのせい。散々悩んで迷って時間が経って、最終的には何者にもならなかったのが今の自分だと長年もの凄いコンプレックスを感じていて、アマンダなら何者かになる、そんな周囲の楽観的な”期待”が苦しくて、気がついたら地球の裏側まで来ていました。ラテンアメリカが好き、スペイン語が好き、それは事実ではあったけれど、同時にここに至るまでの私の道のりは長い長い逃避行だったかもしれないと、今振り返ると思うのです。それでもこうして歳をとり、立場や環境や役割が変わり、物理的に少しずつ可能性が狭まっていくことで自分の道がようやく絞られて来た気がする。それは、少し寂しいような、ほっとするような気持ちでした。

もう一つ。首都でのお仕事が決まれば、これまで散々心配をかけてきた両親にちゃんと安心してもらえる、そして認めてもらえる娘になれる最後のチャンスになるとどこかで思ってもいました。なので辞退を決めた後、両親のことを考えてしばらくの間かなり落ち込みました。ところが、面接日の直後から約2週間ムスメが体調を壊して高熱を出し、抗生物質を4度も変えられてもなかなか快復しない事態となり、私は決まっていた通訳の仕事の準備とムスメの看病に寝ずに追われることとなりました。この2週間、4時間ごとに40度近い熱を出すムスメの額に冷たいタオルを乗せながら、「もし首都で仕事をしていたらどうしていたんだろう」と何度も考え、辞退した決断は正しかったのだと改めて確認する機会となりました。

そしてこの時、実家の母から告白されたのです。「R市に残ってくれて良かった。首都で仕事をすることになったらどうしようかと、実はとても気に病んでいたと」と。それを聞いて、ああ、そういうものかとほっとして力が抜けました。私がこれまで勝手に思い込んでいた両親の”期待”も、周囲の”期待”も、実はてんで見当違いだったのかもしれません。自分で自分を追い詰めて、一人相撲をとっていただけだったのかもしれないと、長年の呪縛から解き放たれた気がしたのでした。

もしかすると「可能性が狭まった」と考えるよりも、これまで対極にあった二つの選択肢だけでなく、母となった今の私には「ムスメを中心に自分の力でできるお仕事を”作って行く”」という第3の選択肢ができていた、と考えた方がいいのかもしれません。

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ムスメの病状はどんどん悪化し、肺炎一歩手前までになり、一旦は回復しかけたものの再び高熱が出た途端、激しい耳の痛みを訴え始めました。そう、肺炎球菌が原因で中耳炎になっていたのです。更に通訳本番前夜、私が最後の追い込みをかけて勉強していると、ムスメがベッドで嘔吐。救急で往診を頼み、お医者さんが到着したのは夜中の1時で、私はまだまだ暗記が必要な単語リストを片手に朝までムスメの看護をすることに、、、。

こうして、私の人生初の逐次通訳体験は、母として家事育児と仕事を両立して社会復帰するための”洗礼”となりました。もう、後は体当たりでやるしかない。

涙なしには語れない、通訳本番のお話はまた次回。