アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

クリスマスいろいろ

子供のころ一番好きだった年間行事と言えば、クリスマス

我が家では毎年定番メニューがあり、家族間のプレゼント交換があり、それを楽しみに1年を過ごしたものです。

思えば、小学校高学年になるまでサンタクロースの存在を真剣に信じていた私。それはひとえに両親の努力の賜物で、「ハムスターが欲しい」とお願いすれば25日の朝には枕もとにハムスターが現れ、「文鳥が欲しい」と言えばやはり25日の朝は文鳥の鳴き声で目を覚ますという魔法のようなプレゼントの出現に、サンタさんが実在することに疑問を挟む余地などなかったのです。

そんな私の幸せな少女時代に終わりの兆しが見えたのは、小学校5年生のクリスマスだったでしょうか。飼っていたハムスターのちっちが死んで以来泣き暮らしていた私が「ちっちと同じ色のハムスターが欲しい」とお願いしたそのクリスマス、サンタさんはなんと、”ちっちと同じ色のハムスター”を見つけることができなかったのです。25日の朝目を覚ますと、枕もとにハムスターはいませんでした。代わりに、父が私の部屋のカーテンを開けようとしている姿があり、更に「お!なんか手紙が置いてあるぞ!」と私に白い綺麗な封筒を手渡してくれたのでした。

白地に透かし模様の入ったその美しい封筒には、ローマ字で私の名前が書かれていて、中を開くと英語の手紙が入っていました。父に読んでとせがんで分かったことは、「ちっちと同じ色のハムスターが見つからなかったから、今年はお父さんに探してもらってくれ」というサンタさんからのメッセージでした。今から思えば、ハムスターを探し回った挙句見つからなかった父の苦肉の策だったのは明白ですが、私はその時もまたサンタさんの存在を改めて確信こそしたものの、疑うなんてことは全くなかったのです。

ところが・・・

ある日いつものように、文房具を探して父の机の引き出しをごそごそとあさっていたところ、何やら見覚えのある封筒と便箋が・・・。そう、それはサンタさんが使っていたのと全く同じ綺麗な便箋と封筒だったのです。ここら辺から私の中では小さな黒い雲がもくもくと立ち上りはじめ、”疑惑”という名のその雲は、次のクリスマスに向かってどんどん膨らんでいったのでした。

同じ頃、父と母の間でも「もうそろそろサンタさんはいいんじゃないか」という話し合いがあったようです。毎年12月24日、仕事の帰りにペットショップなどで動物を買ってはお隣さんに一晩預かってもらい、それを翌早朝取りに行っては私の枕元に置く、という大変な作業を繰り返していた父も、そろそろ限界を感じていたのでしょう

その小学校6年生のクリスマスに私が何をお願いしたのか記憶は定かではありませんが、枕もとに置かれていたのは確かハンカチのセットとベッドランプ、というような極めて実用的な物で、朝目を覚ましてプレゼントを見つけた私はそこで、少女時代の夢からもまた眼を覚ますこととなったのでした・・・

海外で暮らすようになってからは、もっぱら友人たちと料理持参で集まっては朝までサルサを踊ったり女友達と旅行に出てはカリブのビーチでターキー片手に祝ったりと、とにかく楽しく過ごしてきたクリスマス。そこにはもうサンタさんはいなかったけれど、やっぱり1年に1度の特別な行事でした。

そして・・・そんな独身時代のはっちゃけたクリスマスにもやがて幕が引かれ、今ではすっかりセドリック中心の家庭的クリスマスを迎えるように・・・。

今年はでっかいお腹を抱えつつも、スタフィング入りのローストチキン、暑いクリスマスにいいかな~とビシソワーズ(冷たいポテトスープ)、蟹のサラダ、デザートにフルーツサラダ・ミルクゼリーよせを作ったものの、ダーリンもセドリックも姑も、だ~れも大して喜んでくれず。そんなことよりセドリック扮するサンタクロースにプレゼントを手渡してもらうのが一大イベントになってしまう、そんなクリスマスでした。

ぶっちゃけ「つまんね~」と思いますけどっ、これでムスメちゃんが生まれたら、私もまた親バカぶりを発揮するのかもしれません。

Navidad con Cedric

あ~~~~~~~~~カリブのビーチでピニャコラーダ片手に友人達とどんちゃん騒ぎがしたいっ!!ビバ独身時代!!と、ムスメちゃんが生まれる前の最後の”母じゃない”クリスマスを、秘かに苦い気持ちで過ごした私でした。