アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

小児病院 第4病棟の夜

3月15日午後2時。

1ヶ月半お世話になったNEOを出て、遂に小児病院へ移送となりました。NEOを出ることが決まったのは、同日の午前10時。主治医のイルダがやや興奮した面持ちでやってきて、「すぐに自宅に戻って入院準備をしなさい」と知らせてくれました。彼女は昼にはNEOを出て別の職場へ行かなくてはならなかったため、「移送時には見送ってあげられないから、今キスしとくわね。小児病院へも絶対に会いに行くから」と、がしっと抱きしめて頬にキスしてくれました。

そして午後2時。NEOのスタッフ一同に見送られる中、ムスメを抱いて救急車へと向かいました。病院出口から外に出て、救急車に乗るまでのたった3歩、ムスメは初めて外の世界に触れました。涼しいそよ風がふわりとムスメの髪をなで、眩しそうに空を仰いだムスメの顔が可愛らしくて、このまま歩いてムスメを家へ連れて行きたい・・・という衝動にかられながら、私は人生初の救急車にムスメ共々乗り込んだのでした。

小児病院では、特にデリケートな子供たちを対象とした”第4病棟”へ通されました。他の病棟は全て大部屋ですが、この第4病棟だけは院内感染などを避けるため、1部屋に2家族が割り当てられます。M総合病院がラテンアメリカで1,2を競う近代的医療施設であり、改装間もなく綺麗で居心地が良かったため、4畳半ほどの狭いスペースにベッドが二つ入った窮屈な部屋に通された時は、正直言ってかなりひるみました。

しかもこの二つのベッドのうち一つは子供用。もともと1家族用にあつらえられた部屋だったのを、場所がなくて2家族で共有するようになったと後から知りました。大人用ベッドは既に先に入っていた別の母子が使っていたため、私とムスメは足も伸ばせない小さな子供用のベッドで共に寝ることになったのでした。

幸運だったのは、なんとこの大人用のベッドを使っていた母子が、NEOで一緒だった水頭症の男の子ウリセス(3か月)とそのママのセレネだったことです(!)。既に私たちの到着を知らされていたセレネは、ニコニコしながら「待ってたよ~」と歓迎してくれました。

ウリセスは私達よりも1カ月ほど先にNEOを出て自宅看護となっていましたが、ある日呼吸困難に陥り、急きょ入院となったのだそうです。これだけ狭い空間を共有するのが彼らで本当に良かった・・・!!しかも第4病棟の別室には、小腸に問題があって再手術となった、これまたNEOで一緒に過ごした4ヶ月のレオネルと、その母マリアもいて、さっそくマテ茶を持って覗きに来てくれました。

それでも入院最初の数日間は、まさにストレスの連続でした。狭い部屋、小さなベッド、8~10人ほどのお母さんたちと共同で使うトイレやシャワー・・・。テーブルもないので食事もベッドの上、着替えも何もかも全てベッドの上という生活。10年前だったら「バックパッカーご用達のドミトリーみたい」なんて、それなりに楽しめたのかもしれませんが、今の私には少々無理がありました。

他にも、NEOで完璧な衛生概念を叩き込まれてきた私には、第4病棟の看護婦たちのやり方全てが”非衛生的”に見え、かなり衝撃を受けました。何より怖かったのは、NEOでムスメが使用してきた心拍数と酸素率を表示するモニターがなかったことです。「これで一体どうやってムスメの呼吸をチェックしたらいいの?」。頼りになるのはムスメの顔色と呼吸の仕方だけとなり、最初の数日間は超ナーバスな状態で、ムスメの顔ばかり眺めて過ごしました。

どんな環境でも一番辛いのは最初の数日間、というのは私の経験則です。今回もそう思って日々耐えていましたが、毎日24時間ムスメと共にいられる幸せが、何より私を支えてくれました。ムスメの寝息を感じながら、体を寄せ合って眠ることのできる幸福感は何にも勝ったのです。ムスメもきっとそう感じてくれていたのでしょう。NEOを出て以来体重もぐんぐん増え、見た目にも力強く元気になっていきました。

この第4病棟で私は初めて、”母親らしい生活”をスタートさせました。朝起きて、ムスメをお風呂に入れる。決まった時間にカテーテルに繋いだ機械にミルクをセットして与える。ムスメが泣けばオロオロしながらあやし、時々おむつを替え、共に昼寝をする。夜泣きで起こされて眠い目をこすり、うつらうつらしながら抱きかかえて寝かしつける。こんな、きっと普通の新米ママさんがみんなやっているだろうことを、幸せを噛みしめながらようやく始めることができたのです。

ただ普通と違ったのは、ムスメの呼吸が不安定になる、という恐怖感を常に抱いていたことでした。

3月24日。あの日の午後、私には予感がありました。

いつものようにダーリンが6時ごろ病室に訪れ、私は交代で自宅に3時間程度戻りました。いつもならシャワーを浴び、家のことをかたづけ、メールをチェックしてから病院に戻っていましたが、あの日はなぜかムスメのことが気になってしょうがなく、ダーリンに電話をかけてムスメの状態を確認し、「泣き続けている」と聞いてすぐさま病院に飛んで戻りました。

私が病室に戻ってからムスメは泣きやみ、2時間ほどベッドでおとなしくしていましたが、寝入ることはせず、じーっと壁を見つめていました。ダーリンが家に帰ってからもそうして寝ないムスメを見続けて、彼女がうとうとと寝そうになっては苦しそうに喘いで目を覚ますのを繰り返し始めたことに気が付きました。そっと撫でてみると、その体はびっしょりと冷たい汗に濡れていました。

すぐに看護婦に話しに行き、宿直の医者を呼んでもらいましたが、ムスメのことをよく知らない医者は簡単に胸に聴診器をあてただけで、「パラセタモル10滴投与して」とだけ言い残して去って行きました。でも私は、パラセタモルなんていうユルイ薬の10滴で、ムスメの状態が回復するなんて全く思わなかった。

既に夜11時を回っていましたが、今夜は寝ないと決め、ベッドに座り込み、じっとムスメの様子を観察し続けました。しばらくするとムスメは、時折ふと呼吸するのを止めてしまう無呼吸症状を見せるようになりました。そして見る間にその間隔が長くなり、遂には息をするのを止めてしまったのです。

私はムスメを抱き上げて目を覚まそうとしましたが、既にムスメは目を覚ます力もなく、顔色もあっという間に土気色に変わっていきました。

とっさに何をしたらいいのか、私には考える余裕もありませんでした。ムスメをベッドに横たえ、看護婦を呼ぶため叫びながら廊下に飛び出しました。駆け付けた看護婦がムスメを抱き起こし、別の看護婦が宿直の医者を探しに走って行くのが見えました。再びやってきた医者はムスメの呼吸を聴診器で聞き、看護婦を外に呼び出し指示を与え、そのまま集中治療室へベッドの確保のために向かいました。

注射を打たれようやく目を覚ましたムスメは泣きだし、そのまま看護婦に抱かれて集中治療室へと運び出されました。私も真っ青になりながら付いて行ったものの中には入れてもらえず、呼ばれるまで廊下で待つことになりました。暗い廊下で、集中治療室のドアをにらみつつ、立ちっぱなしで何時間待ったことでしょう。医師に呼ばれて中に入り、7,8本のケーブルに繋がれ、口に酸素の管を通されたムスメ、でも、生きてちゃんと呼吸をしているムスメを見ることができたのは、明け方の4時半頃でした。

集中治療室に運びこまれた時のムスメは重体だったそうです。喉のカニューレは完全に詰まっていて機能しておらず、口からの細い息で何とか生きようともがいていましたが、気管も分泌物で半ば塞がれていたと後から分かりました。体中の力を振り絞って苦しい呼吸を繰り返し、冷たい汗をかき、たった一人で頑張っていたムスメは、でも遂に力尽きて、呼吸を止めようとしていたのでした。あの時、ムスメは私の目の前で、ゆっくりと死んでいこうとしていたのです。

それを聞かされて、私は胸が張り裂けるかと思った。目の前にいて、何もしてあげられなかった自分の無力さ。なぜもっと早く気がついてあげられなかったのか。そして、深刻な呼吸困難を常に抱えたムスメの状態を見に来た宿直の医者が、なぜカニューレのチェックや、分泌物の吸い取りを指示しなかったのかという怒りも同時に湧きました。

少なくとも、あの時あの医者の言うことを信じないで良かった。もし医者の言うことを信じて、私が寝てしまっていたら、きっとムスメは音もなく死んでしまっていたに違いないと、そう思うと震えがきました。ムスメを守れるのは私しかいないんだ。一番近くに、一番長いこと一緒にいる母親である私が、ムスメのことを守ってあげなくては。

ムスメは翌日CTを撮り、2日後の土曜日には新たなカニューレ装着のため手術を受けました。集中治療室に入って1週間が経ちましたが、術後の経過は順調だったものの、数日前に院内感染にかかったらしく、39度の高熱を出して抗生物質を投与されるようになってしまいました。一難去ってまた一難・・・。感染について詳しい検査の結果が出るまで集中治療室から出ることはできませんが、おそらく来週頃には再び第4病棟に母子ともども入院となるでしょう。

数日前、ムスメを見舞った後、寄り道をして公園を歩きました。大きなユーカリの木々からこぼれる夕方の日の光は金色に輝き、たくさんの子供たちが親たちと遊んでいる風景が、まるで別世界のようでした。いつかこうしてムスメと芝生の上を走りまわりたい。手を繋いで池に集まる鳥たちを見に行きたい。メリーゴーランドに乗せてあげたい。

足もとでカサカサと鳴る小さな乾いた音に気が付き、ふと見下ろすと、一面に黄色い落ち葉が敷き詰められていました。ムスメが生まれた夏は終り、いつの間にか季節は秋へと移りかわっていました。