アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

恩人たち

ムスメが生まれて2ヶ月半が過ぎました。嵐のように波乱万丈の2ヶ月半でしたが、思いがけない喜びに出会うことも多々ありました。

それは例えば、人との出会いです。NEOでムスメが特にお世話になった恩人と言えば、主治医のイルダ、作業療法士のホセ、そして看護婦のレジーナの3人です。

NEOの主治医イルダのことはこれまでにも何度か書きましたが、実はこのイルダ、ムスメを担当するまでは関係者一同の間で「冷たくドライな医者」として有名だったそうです。50代のイルダはボリュームのある上半身に高い腰、細い足と、典型的な欧米人スタイルで、ショートボブにミニスカートがトレードマーク。いつも綺麗にマニキュアを塗り、背筋をしゃんと伸ばした貫禄ある風貌は、確かに威圧的でもあります。

そんなイルダでしたが、ムスメを担当するようになって数週間後には、「この子は私の一番のお気に入りよ」と公言するようになり、プレゼントのおもちゃを片手に現れたり、ムスメの横に陣取ってムスメをあやしながら執筆業務をしたり、果てはムスメのおむつを替えたり、お風呂にまで入れてくれたりと、その”医者”の業務とかけはなれた可愛がりようと、「ドライな医者イルダ」の変貌ぶりにはNEO中が騒然となったそうです。

←これがイルダ。ムスメと一緒に写真が撮りたいと言い出したのも彼女(笑)。

私たちが小児病院へ移送になった後も、「会いに行くわよ」の言葉通り、作業療法士のホセを引き連れてさっそく個人的に訪ねて来てくれました。そしてこのイルダ訪問もまた、NEO関係者を驚愕させたそうです。

作業療法士のホセは40代?皮肉屋の彼の冗談が私は大好きで、憎まれ口の影に深~い優しさをいつも感じていました。ムスメの状態が悪化して私がへこんでいる時には、さりげなく様子を見に来ては笑わせてもくれました。ムスメの呼吸が乱れるたびにマッサージをして、喉に詰まる分泌液の吸い取りをし、気道を確保してくれた彼は、まさにムスメの命の恩人だったと言えます。

小児病院への移送が決まった日、大慌てで入院準備のため自宅に戻ろうとする私に、「病院への搬送に俺も同伴するから!今イルダの許可をもらってくるからな!」と叫んで走っていった彼でしたが、私が再びNEOに戻った時には既に他の職場からお呼びがかかり、行ってしまった後でした。同伴できないことを悪いと思ったのでしょう。ムスメのベビーベッドにホセから私宛の手紙が貼り付けられていました。

その手紙には、「君のムスメちゃんには作業療法士としてだけでなく、一個人として学ばせてもらうことがたくさんあった。この先も頑張れよ、ママ!」とありました。

看護婦のレジーナは27歳の金髪碧眼の美人さんです。NEOには40人前後の看護師が働いており、ムスメを担当してくれたのはその内の15人ぐらいでしたが、私は中でもレジーナの仕事を最も信頼していました。どこの職場でもそうでしょうが、全ての看護師がみな同じレベルの仕事をするわけじゃありません。やる気のない人もいれば、いい加減な人、乱雑乱暴な人もたくさんいたので、母親として私は始終、個々の看護師のやり方を密かにかなり厳しくチェックしていたのです。

レジーナはNEOで働き始めて間もなく、以前はプライベートのクリニックで仕事をしていたそうです。その経験あってのことでしょうか、彼女の仕事ぶりは細部まで正確で誠意があり、細かい気配りに至っては既に仕事の範疇を超え、彼女の人間性がにじみ出ていました。ムスメを可愛がってくれるだけでなく、よく観察し、何が必要か、何がムスメにとってより良いかを真剣に考えてくれていました。

ムスメの分泌液の吸い取りは、自宅看護になった際には私がやらなくてはなりません。その方法を厳しく私に指導してくれたのも彼女(とホセ)でした。殺菌済みの手袋のはめ方、カテーテルの切り方、右手と左手の使い分け方、カニューレにカテーテルを挿入して吸い取るやり方、等々・・・彼女に教えられたことは、小児病院へ移送になった後も今もずっと役に立っています。

先日、そのレジーナがムスメに会いに来たいと電話をくれました。その時彼女と話して分かったことは、第4病棟でムスメの呼吸が止まり、集中治療室に運ばれたあの夜、ムスメの命を救ってくれた医者のマウリシオは偶然にもレジーナのかつての同僚だったそうです。そしてレジーナと話した数日後、今度は医師マウリシオが近寄ってきて、「レジーナからメッセージが来たよ。私の元患者ちゃんを助けてくれてありがとうって。」と笑いながら言っていました。

こうして、この町の主要な医療関係者の間で、珍しいシンドロームと日本人の母親を持つムスメは、だんだん有名人になりつつあります。後数日で集中治療室を出て第4病棟に戻る予定ですが、第4病棟の看護師たちも私を廊下で見つけるたびに、「いつ戻ってくるんだい?早くおいで~」と声をかけてくれます。医療関係者と患者の距離が近いのはお国柄だと思いますが、NEOでも第4病棟でも集中治療室でも沢山の人との出会いがあり、皆に心配され、大事にされて今日までこれたことに心から感謝してやみません。

見守ってもらっているといえば、先日よく使う127番のバスに乗っていた時のこと。降りようとして運転席横の昇降口付近で待っていたところ、突然運転手さんに「で、お腹はどうしたんだい?」と・・・。私は一瞬理解できず、「ん?お腹??」と聞き返し、「お腹だよお腹!中身はどこに行っちゃったの?」と言われようやく、妊娠中の私をよく見かけていたのだこの人は!と気がついたのでした。ムスメがNEOにいると話すと、心配そうな顔をして首を振った後、「頑張れよ!」と声をかけてくれました。

そして今、小児病院へ通うのに毎日使っている113番のバスの運転手さんに至っては、道を歩いている私を見つけてはクラクションを鳴らして手を振ってくれたりして・・・ひょっとして町の有名人???と錯覚してしまいます。

私たちが住んでいる地区でも、実は巨大なお腹を抱えた私の出産は、ご近所さん、特におばさん&おばあさん達のお楽しみになっていました。出産予定日が近づくにつれ、もう待ちきれなくなったご近所さんたちや、果ては、全く見ず知らずの人までが、私やダーリンを見つけては「いつ生まれるんだい?」としきりに聞いてきたものです。

それが出産後、障害児誕生のニュースがさ~っと流れたようで、多くのおばさん連中が私を見かけるとちょっと気まずそうな顔で「オラ」と小声で呟いて、さっと通り過ぎて行くようになりました。これが意外にも私にはこたえたのですが・・・(苦笑)。だって、勝手に盛り上がって、勝手に気まずくなっているんですもん。しかも、私のお腹をネタに!

でも最近になって、バスを待っている私に知らないおばさんが「ムスメちゃんはどうなったの?あんた、頑張ってね」と声をかけてくれたり、2軒先のおばさんが「うちの息子が小児病院の薬局にいるから何でも必要なものがあったら言いなさい」と言いに来てくれたり、実際その息子さんが第4病棟を訪ねてきてくれたりしました。また、以前から私を可愛がってくれていた近所のマーケットのおばさんが、ある日プレゼントを抱えて第4病棟にお見舞いに来てくれたりもしました。

人に救われる、ということを、こんなに切実に経験したことはこれまであまりなかったように思います。アルゼンチンに来るまでは、何でも自分一人で切り抜けていけると、どこかで思っていた時期もありました。でも違った。本当に苦しくて、自分一人じゃどうにもできない状況というのがこの世にはあって、そしてそんな時手を差し伸べてくれる人がいることの有難さを、今この歳になって学んでいるように思います。これもムスメのおかげかな。

まだまだ甘え下手な私は「もっと頼りにしてくれ」とこちらの友人たちに叱られていますが、やっぱり基本は自分の足で踏ん張りながら、でも手の届くところ、フラッとなった時によっかかれるところに友人たちにはいて欲しい・・・。なかなか会えない話せない、遠く離れた友人たちのこともとても懐かしく思い出す今日この頃なのですが、どうかみんな、そんな距離にいつもいてね!!!