アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

日本滞在その2.~病院編1~

母の日@アルゼンチンです。が、ダーリンが39度の熱に倒れ、普段の家事+看病という事態に陥っています。あーあ、美味しいAsado(炭火焼肉)を期待していたのにな~。でも、今年はムスメから初めての贈り物をもらって母、感涙しました。「Esto para mama, un regalito(これはママに。プレゼント)」とちゃんと言葉で言ってもらえたことにも大感激!!!

 

DSCF0140_convert_20141021012817.jpg DSCF0142_convert_20141021012130.jpg DSCF0143_convert_20141021012339.jpg

ハートを開いて左側が私のお顔、右側がムスメのお顔だそうです。じっと目を凝らすと確かに顔っぽい(笑)!

 

さて、すっかり初夏の陽気のアルゼンチンです。最近庭の水遣りがムスメの日課となりました。いつかこんな日が来るといいな、と思っていたことが現実になって、感慨深いものがあります。水遣りしながら、コゲちゃんの眠っている木を指差して「そこにコゲちゃんがいるんだよ」と言うと、ムスメはいつも一生懸命身を乗り出して「どこにいるの?見える?見えないよ」と聞いてきます。そんな会話がもの凄く愛しい!そうだよねぇ、見えないよねぇ、、、(笑)。

 

DSCF0125_convert_20141021013251.jpg     DSCF0126_convert_20141021022429.jpg

 

ムスメが毎日上機嫌で、いつもニコニコ笑っているのを見ると本当に癒されます。ここのところ、保育園で毎日違うお歌を覚えてきては披露してくれますが、ムスメのゆる~い発音だと歌詞がなかなか聞き取れない(笑)!とにかくお歌ブームの今は、お散歩してても、お買い物に行っても、いつも二人で手を繋いでお歌を歌いながら歩いています。

 

DSCF0120_convert_20141021031058.jpg     DSCF0122_convert_20141021030558.jpg

おやつにオレオを食べて、お手手もお口も真っ黒けになっちゃった図。嬉しそ~。

 

先日注文したチェストが家具屋さんから到着したので、早速ニスを塗って乾かして部屋に置きました。これでようやくスーツケースが片付けられた。ふ~。帰宅から1ヶ月ぐらい経って、旅の後遺症がやっと抜けてきた感じです。まだまだ庭仕事とか手が付けられていないことも沢山ありますけど。

 

DSCF0111_convert_20141021030707.jpg DSCF0114_convert_20141021030807.jpg DSCF0116_convert_20141021030929.jpg

お天気の日に屋上のテラスでニス塗り。

日曜大工好きの私としては、こういう作業にも癒されます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回は日本滞在の《生活編》を書こうと思っていましたが、このテーマを書くにはもう少し頭の中を整理する必要がありそうなので、まずは《病院編》から。

 

日本の病院について書く前に、アルゼンチンで私達がお世話になっていた医療機関について少し書いておきます。首都ブエノスアイレスにある国立ガラハム小児病院は国内はもとより、中南米でもレベルの高い医療機関として信頼を集めている権威ある病院です。国立であることから、手術を含む医療行為は全て無料。それは患者がアルゼンチン人でなかったとしても同じで、近隣諸国から難病を抱えた子供を連れてやって来る外国籍の家族も受け入れ、パスポートと両親の承諾書さえあれば無償で医療を施すという立派な姿勢を貫いています。

 

アルゼンチンではこうした国公立の病院に、よりレベルの高い医療関係者がいるのが一般的で、権威ある専門医たちは午前中は国公立の病院に勤め、午後はプライベートのクリニックで仕事をするのが定番パターンのようです。なので、私立の病院(は医療費がかかります)の方が施設が綺麗だったり、接客サービスが良かったりしても、総合的医療レベルの高さから難病患者は国公立病院を選ぶことが多いようです。私達もアルゼンチンの“アペール症の会“の方たちに勧められてガラハムの門を叩きましたし、同会のアペール症児達はほとんど皆ガラハムで総合的な治療を受けているそうです。

 

こうして非常に崇高な思想で運営されているアルゼンチンの国公立の病院ですが、実態はどうでしょう。ガラハムはさすがに国内随一の小児医療機関としてインフラもまずまず整っていますし、看護師やスタッフの対応もそう悪くありません。が、医療費が無料であることから、常に患者で溢れかえっているのが現状。健診の日は私達の住むR市から車で4時間かけてガラハムまで行きますが、例え予約を取っていたとしても患者でごったがえした廊下で待たされること数時間は当たり前、それで医者の診察は5分ほど・・・。手術の前であっても大した説明を受けることはなく、質問しても面倒くさそうに答えてもらえるか、もらえないか、というところ。多分、患者に説明してもどうせ分からないだろうから時間の無駄、と思っているのでしょう。

 

中には仕事量の多さから常に苛立っている医師もいて、患者を”人“として見ていない、捌かなければならない”ノルマ“としてしか扱わないような人もいます。私達はムスメの手の指の切り離しをお願いして某形成外科医のもとに2年間通いましたが、著名な医師を父親に持つ二世の彼の態度はいつも高慢で冷たく、診察と呼べるような診察はしてもらったことがありません。肩や肘のCTを持って行ってもほとんど見もしなかったし、頼み続けたにも関わらず結局手術の予約は一切入れてもらえませんでした。ガラハムには保険を持たない貧しい患者が多いため、保険のある私達家族は「プライベートの病院にかかれば」とそっけなく追い払われるばかりだったのです。待てど暮らせど手術をしてもらえない。それが結果的に、今回の日本での手術を決意させるきっかけの一つとなりました。

 

首都のガラハム病院でさえこれですから、R市の公立病院に至っては、あらゆる意味で“野戦病院並み”と言わざるを得ません。予算不足からでしょうが、まずインフラが整っていません。入院施設も大部屋になると20台ほどのベッドがドーム状の建物の中にずらりと並び、カーテンなどの仕切りもないのでプライバシーは一切なし。壁に取り付けられたテレビは親達が深夜テレビを見続けるので夜中の2時ごろまでつけっ放しだし、20人もの怪我や病気の子供がいれば、常に誰かが大声で泣いているもの。この部屋に入院した時には、テレビの大音量と患者の泣き声で私もムスメもほとんど眠れない夜を過ごしました。

 

難病指定の二人部屋も、3畳程度の狭い個室に無理やりベッド2台を入れていて、やはりカーテンなどの仕切りはなし。ここでもテレビが無料で見られるため、同室のお母さんが真夜中まで大音量でテレビを見続けるのには閉口しました。他にも、例えば手術室の前には患者の退室を待つベンチもないので、親達は冷たいタイルの床に座るか立ちっぱなしで待ち、集中治療室の前には寝床のない親達がダンボールなどを床に敷き詰めて寝泊りしていて、ほとんどスラム状態になっています。

 

やはり難病の子供達が集まる場所ではありますが、同時に、無料の医療を求めてやって来る貧しい家族のより所にもなっていて、患者だけでなく付き添いの親にも食事が出るため、それを目当てに来る貧困家庭の人々もいます。この激しい社会格差を受けて、看護師や清掃スタッフ達が貧しい患者に対して高飛車で非人間的に振舞う場面もよく目にしました。「やってやっている」目線と言えばいいのかな。もちろん素晴らしい医師や親切な看護師さん達にも大勢会いましたし、彼らの威信にかけても全ての人がそうとは決して言いませんが。

 

いずれにせよ医療機関としては、、、何から何まで乱暴、と言うのが率直な印象です。例えば、ムスメの時もそうでしたが、泣き叫ぶ子供を力づくで手術室に連れて行く、みたいなことが日常茶飯事で行われていて、患者の心理とか患者家族の精神的負担なんてものは全く考慮されていません。術後の治療も荒っぽくて、痛みに泣くムスメのガーゼもおかまいなしにはがし、ムスメのTシャツが血に染まるような経験もしました。診察に行ってもカルテすらなく、毎回異なる医師が全く違うことを言うのには驚きだけでなく怒りさえ感じました。こうした話は書き始めると枚挙に暇がありません。

 

その野戦病院に生後1ヵ月半のムスメと2ヶ月近くも入院したことは、私の人生の中で最悪の体験だったし、今改めて思い出すだけでも涙が出ます。問題は病院側の対応だけでなく、先ほども触れた激しい社会格差の中で日々暮らさなければならなかったこと。

 

当時、ムスメは呼吸が停止して死にかけたりして、生きるか死ぬかの境を彷徨っているような危うい状態でしたが、その横で他の入院患者のお母さんから散々物を盗まれたりしました。最初はお金、携帯のカード、私の洋服、果てはムスメの縫いぐるみまで。当時狭い二人部屋にいて、同室のお母さんが盗んでいるのは分かっていましたが、証拠もなかったし、ムスメの看病以外のことに注ぐエネルギーもなく・・・。何より、どこかで彼女に同情してしまったところがありました。身近に生活レベルの違う人間がいて、日々欲しいものを見せ付けられるとなったら、手も出てしまうのかもしれない、と。諸悪の根源は彼女ではなく、貧困なのだと。着替えている間にも背中にもの凄い視線が注がれているのが分かるんですよねぇ・・・。私の下着をジーッと見ているのが。死にかけたムスメを抱えて、泥棒と同室で暮らすこと、これはものすごい緊張を強いられる凄まじい経験でした。

 

他にも、当時入院病棟には患者への態度の悪い清掃のおばさんがいて、ムスメのお水を取りに行こうと廊下に出た途端に「今掃除したばかりで床が濡れているんだから踏むんじゃない(足跡が残るから)!部屋に引っ込んでな!」と大声で怒鳴られたりしました。また、私がシャワーを浴びているところへずかずかと入ってきて(鍵がない)、裸の私をじろじろと眺めながら「この時間はシャワー浴びるんじゃない!私が清掃用具を取りに来る時間なんだから」と舌打ちされたり・・・。ああ、あの時ほど人生で惨めな思いをしたことはなかった。

 

「この病棟では掃除婦が一番偉いのか!」と、ぶち切れた私が病棟長のもとへ抗議に駆け込み、すったもんだの騒動となり、その後彼女の態度もいくらか改まりましたが、こうした現象も「貧しい患者とその家族には酷い態度をとっても良いのだ」という社会格差が生んだ悪習が医療現場にあったからだと思います。貧困層の人々は、例え虐げられたとしてもそれがあまりに日常的なものだから、声を上げようとしません。こうして負のスパイラルは続いていくのだと身をもって知ったし、だからこそ私は絶対に黙らない、とある時点で心に決めました。それからは意見箱に山のような意見書を投函したり、疑問があれば病棟長に直接話しに行くようになりました。

 

結果的に、そんな私の闘う姿は、異国の地で何やら一風変わったチニータ(東洋人をひっくるめてこう呼びます)が奮闘しているぞ、と、徐々に人々の注目を集め始め、医療関係者の中には特別な愛情を持ってムスメをアテンドしてくれる人も現れました。また、当時お世話になった数人のお医者様とは今でも友人として親交が続いています。

 

振り返ると、ムスメ誕生後の“闘い“は純粋に病との闘いだけではなかった。それは貧困、社会格差、差別、無秩序、低い教育のレベルなど、途上国に溢れかえる社会問題の多くとの闘いでもあったのだと、今になって冷静に考えると理解できます。よくもあの状況の中で、難しい医学用語に泣かされながら、チューブだのモニターだのに繋がれたひ弱なムスメを死なせずに済んだなぁ・・・と正直思います。もしかすると、私の人生の中でこれだけは胸を張ってやり抜いた、と言えることかもしれません。

 

こんな状態でムスメを抱え、それでもベストの道を探して右往左往しながら数年間生活してきたので、素晴らしい日本の医療機関との出会いは、だから目から鱗のカルチャーショックですらありました。

 

書き始めてみたらすっかり長くなってしまったので、《病院編2》はまた次回!