日本滞在その2.~病院編2~
初夏のアルゼンチンはジャカランダの綺麗な季節です。日本の桜に例えられるこの紫色の花には、日本でもファンが多いとか。桜よりも色の濃いジャカランダが咲く季節は街角がぱっと色づき、道には紫色の絨毯が敷き詰められます。
我が家の庭も賑やかになってきました。今年もアガパンサスが大輪の花を咲かせたり、いっとき弱っていたクチナシが芳香漂う花をつけています。
アガパンサスはつぼみから花へ変容する様子が面白いのです。
こちらがクチナシ。アルゼンチンでは数あるジャスミンの代名詞。Jasmin Comunと呼ばれます。
帰宅から1ヶ月間経った先日、ようやく雑草取りをして少し綺麗になった庭には、ハチドリが毎日やって来るようになりました。お目当てはスイカズラの蜜。いつも写真を撮ろうと試みるものの、素早い妖精たちはチャチャっと蜜を吸ってさっと姿を消してしまいます。
ガザニア3色。今年の春に白と黄色も植えてみました。大きく育つかな。
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さて《病院編2》ですが、私とムスメのための手術記録として書いたのでとても長いです。興味のない方は飛ばしちゃってください。アペール症のお子さんがおありの方には、何かご参考になることがあれば幸いです。
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今回日本では都内の某大学病院にお世話になりました。医療機関を決めるにあたり、ネットで調べたり、日本のアペール症児のお母さん方から情報をいただいたりして、アペール症の症例を多く扱っているこちらの病院に行き当たりました。父のお知り合いのお医者様が、ちょうど同病院の形成外科長の先生をご存知で、ご紹介いただけたことも幸運でした。こうして、出発前には形成外科長の先生からメールでご連絡をいただき、大まかな手術の内容や、初診日、手術日まで決めていただくことができました。
病院探しと同時に、日本でムスメが受けられる福利厚生についても調べ始め、実家のある地域の市役所とも連絡を取り始めました。直ぐにご担当の方が返事をくださり、煩雑な手続きについても分かりやすく説明してくださいました。こうして日本側の各機関と連絡を取り始めた最初の段階から、素早く丁寧で無駄のない対応に感激することしきりでした。反してアルゼンチンでは、例えば旅行に必要なドルを換金するのにも政府の承認が必要だったりして、多くのペーパーと手続きに翻弄され駆けずり回る日々で、余計にその差が際立ったと言えるでしょう。
日本に到着し、緊張して迎えた初診の日も、お医者様が二人がかりでムスメを診察してくださり、その日の内に市役所へ提出する必要書類の数々を作成してくださり、手術に必要な各種検査も終えることができました。アルゼンチンでは診察に5分もかけてもらえないのに、この日は実に3時間もかけて対応していただき、そのあまりの手厚さにダーリンは心底驚いて言葉もなく、私も改めて日本が持つポテンシャルの高さに感激したのでした。
手術二日前に入院した時もそうでした。執刀医から手術内容についての丁寧な説明があり、看護師さんからも手術までの流れを写真付きの資料で説明していただきました。担当の麻酔医が居室まで挨拶に来られ、座っていた私の横で床に片膝をついて麻酔の説明を始めた時には、その丁重さと腰の低さにこちらの方がすっかり恐縮して身の置き場に困ったほどです。
私たちは4人部屋に入院しましたが、ダーリンはプライバシーの保たれた快適な居室にすっかり舞い上がり、オモチャや本、DVDなど完備されたプレイルームにムスメ以上に興奮して、さっそくトミカのプラレールを組み立てていました(笑)。実際このプレイルームには本当にお世話になりました。ここがなかったら私たちの長期入院は乗り越えられなかったことでしょう。
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今回日本でお願いしようと思っていた手術は、両手指の分離と45度外側に曲がった親指の矯正でした。ムスメは2歳10ヶ月の時に人差し指と小指をアルゼンチンのR市公立病院で分離してもらいましたが、中指と薬指は完全にくっついた状態でしたし、一度分けてもらった指の又もだいぶ浅くなっていました。両手を同時に手術すれば、2週間ほどの入院一度で済むものだと思っていましたが、実際にお医者様と話をする中で、今回の滞在中にできることが他に幾つもあることが分かりました。
一つは、左目の逆まつげの手術。下まつげがいつも目に張り付いている状態で、左目が常に充血して赤かったのですが、アルゼンチンでは治す方法がないと言われていたこの逆まつげ、日本では簡単な手術で治せました。
もう一つは胃ろうのペグ抜去。お口から食べられるようになってだいぶ経ちますが、アルゼンチンの医師からは顔面骨の大掛かりな手術が終わるまで胃ろうは付けておいた方がいいと言われていました。ところが日本のお医者様からは、使わないものをいつまでも付けておく必要なしと言われ、かねてから取ってしまいたいと思っていた私達は直ぐに抜去の決断をしました。
更に、お口の中の上顎の口蓋裂です。これもアルゼンチンの形成外科医からは顔面骨の手術が終わるまで閉じる必要なしと言われていましたが、日本のお医者様には、発語が始まる前のなるべく早い時期に閉じてあげるもの、でなければ生涯発音に問題が残ると指摘され、即座に手術を決めました。
この時点で私の心はアルゼンチン医療への不信感で一杯に、、、。そう、今回本当に驚いたのは、日本ではアペール症児に対する治療法とその手順がはっきりと確立されていて、しかもその内容がアルゼンチンのものとはだいぶ異なるという点でした。
例えば、頭蓋骨縫合早期融合症が特徴のアペール症児に対してアルゼンチンでは真っ先に頭蓋骨を延長する手術を施しますが、日本の場合は近年、それ以前に手足の合指を分離する手術を行っていること。両手両足が使えなくなる不便さを考えると、幼い内に手術をしてしまう方が本人の負担も軽く、また手指が動かせることで知育にも良い影響を与えるからという理由のようです。実際、ムスメも今回の手術で長いこと手が使えず、だいぶストレスになったはずです。
だからこそ、両手を一度に手術をするのは避けようと、最初の段階でお医者様たちと話して決めました。この時点で、手術回数は予想を遥かに上回り、4回ほどになる見通しとなりました。
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4月24日
手術1回目:右手の中指と薬指の分離、左目の逆まつげの処置。
この2週間後に予定されていた2度目の手術で左手の薬指と中指の切り離しをするはずでしたが、術後は肘まで固定され全く手が使えず、包帯が取れるまで1ヶ月以上かかると一度目の手術で分かりました。もし予定通り左手を手術してしまうと、両手共に固定されてしまう期間があまりにも長いため、ムスメのストレスが深刻な問題になりかねないと判断し、手術内容を変えてもらうよう急遽お医者様にお願いしました。
一度目の手術後。手に親指の延長器がついているため、包帯がでかい。
でか過ぎて、手術直後に手の通る服がなく、遠山の金さん状態です。
※この手術の3日後にダーリンはアルゼンチンへ帰っていきました(涙)。
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5月8日
手術2回目:口蓋裂の処置、胃ろうのペグ抜去。
口蓋裂の手術後は、1ヶ月間流動食になります。ムスメは片手が完全に使えない状態になった上、味気ない流動食(重湯がメイン)になったにも関わらず、一切文句を言いませんでた。ムスメを病室に一人で置いておけないため、私の食事もムスメの目の前でしなければなりませんでしたが、私が食べている物を欲しがったり、それでぐずったりすることがただの一度もなかったことには、私の方が正直驚きました。
胃ろうのペグは簡単に抜去できましたが、3年間も装着していた穴は自然には閉じないということで縫合してもらいました。ところがそれでも穴は上手く塞がらず、胃液が染み出してただれてしまう事態になりました。こうなるとただれた傷口の周辺を切り取り、再度縫合する必要があるとのことで、3度目の手術の際に処置することになりました。ふ〜、、、何事も一筋縄ではいきません、、、。
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5月22日
一時退院。入院から1ヶ月目。
一時退院の時もお手手にはでかい包帯が・・・。
入院生活も1ヶ月になると毎日同じことの繰り返しで鬱っぽくなってきます。ムスメもプレイルームのオモチャにはすっかり飽き、退屈そうな顔を見るのが本当に辛かった。私も、この時ムスメが毎日見ていた幼稚園のDVDがトラウマになり、その後一切見るのも嫌になってしまいました。
だから一時退院になって本当は飛び上がるほど嬉しいはずでしたが、実はそう楽観もできない状況でした。この時、ムスメの右手には親指を矯正するための金属製の延長器ががっつり骨に食い込んでいて、それを自宅でも毎日少しずつネジを巻いて伸ばして行く必要があったからです。
これがその延長器。・・・医学ってなんだか凄まじいです。
ムスメはいつも大人しく治療させてくれましたが、痛々しくて私の方が泣きそうでした。
ぶつけたりすると感染症になる可能性があるため、歩行の危なかしいムスメが転ばないようにと始終気を使い、毎晩お風呂の後の消毒とネジ巻きの時には、包帯を外す手が震えました。延長器が手に刺さっている部分が化膿していたり、膿が出ていたり、赤く腫れ上がっていたりすることもあり、今日はどんな状態なんだろう、、、悪くなっていたらどうしよう、、、と常に不安だったのです。
またこの退院期間は流動食しか食べられなかったため、食事の準備も大変でした。母と相談しながら、無い知恵を絞ってなるべく変化に富んだメニューにしようと四苦八苦の日々。フレンチトーストの流動食を母が発案した時には感動すらしました。ムスメも目先の変わったものが出てきて大喜び!毎日大変でしたが、食事の内容は病院にいた時に比べて自宅の方が工夫できたので、ムスメにとっては良かったと思います。
でっかい包帯のお手手で行ってきた、サンシャインの水族館。アシカショーに大興奮!
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6月10日
入院2回目。3週間の自宅療養を経て。
6月12日
手術3回目:左手の指の分離、右手の延長器取り外し。
右手の親指は延長器のおかげでだいぶ長く真っ直ぐになったため、先生方は左手の親指にも同様の延長器を付けようと試みましたが、左手の親指の曲がり方があまりに極端だったため上手く取り付けられず、移植した皮膚の定着を妨げる事態となり、結局術後1週間で外さなければませんでした。
胃ろうの傷口は周辺部分を切り取り、きれいに縫合し直してもらって胃液の流出がやっと止まりました。傷自体は小さく、今では少し赤味が残っているものの、あまり目立たなくなっています。実は私、この胃ろうのペグを取り外せただけで、ものすごく解放された気分になりました。これでムスメの体についた「異物」がまた一つ取れたわけです。近い将来、気管カニューレが外せた暁には、あまりの喜びに大声で叫んでしまうかもしれません(笑)。
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7月1日
手術4回目:当初予定されていなかった突発的なもので、延長器が上手く取り付けられなかった親指に対して何か処置ができないか手術室で検討してみる、というものでした。同時に、浅くなっていた右手の人差し指と小指の又を深くしてもらいました。
両手ともに包帯なうえ、足には点滴のルート。
最も重装備だった時はおトイレに連れて行くのに車椅子を使わないとなりませんでした。
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7月12日
退院2回目。入院から5週間目。
手に延長器もついていなかったので、気持ち的にもだいぶ楽な退院となりました。右手はまだ包帯を巻いていましたが、それも1週間後には取れ、4月以降初めて晴れて両手ともに包帯なしという状態になりました。万歳!!!
でもあまりに嬉しすぎて猛暑の中遊園地へ出かけ、母が熱中症で気を失って倒れる事態に・・・(!)。ゴメンなさいお母さん!他にも、姉夫婦と川に遊びに行ったり、地域の盆踊りにも参加しました。
真夏日の遊園地の暑さは殺人的で、この1時間後ほどに母が熱中症で意識を失うことに・・・!
姉夫婦と訪れた川は水がとても綺麗で、浅瀬は子供たちの遊び場にぴったりでした。
水を怖がらなくなったのが凄い進歩!
初めての日本の夏祭り。
もちろん花火も初めて。ちょっとおっかなびっくりの及び腰。
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8月5日
入院3回目。
8月7日
手術5回目:右手の人差し指と小指の再分離。
浅くなっていた指のまたを深くしてもらいました。これでようやく、両手ともにかなり整った指になりました。たとえ指のまたをほんの少し分離してもらうにしても、皮膚の移植が必要です。とは言え、いつも通り2週間ぐらいで包帯は取れるだろうと楽観していたところ、予想に反してなんとこの最後の皮膚移植が上手くいかず、、、。
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8月19日
退院3回目。入院から2週間。
遂に遂に、待ちに待った退院の日を迎えて感無量でした。この日は姉の旦那様が車で迎えに来てくれて、その足で都内のアルゼンチン名物”チョリパン”の店に両親共々連れて行ってもらいました。ようやく「次に待っている手術がない」退院。数ヶ月来ずっと鬱っぽかった気分が腫れて、本当に心が軽くなりました。
久しぶりの懐かしい味に舌鼓。ふ~、ようやくシャバの空気だ~。
ただ一点、懸念事項がありました。それは右手の皮膚移植がどうも上手くいっていなかったこと。自宅に戻って毎日消毒していましたが、ある日とうとう移植した皮膚のほとんどが消滅し、人差し指と小指のまたの肉が露わになってしまいました。また、薬指の皮膚に炎症が出始めて、すでに定着していた皮膚までも赤い斑点で覆われていたのです。
すぐに病院に連絡を取り、翌日には診察してもらいましたが、赤い斑点は包帯のただれで心配ないでしょうと言われました。ところが、この症状が日を追うごとに悪化し、指も手もパンパンに腫れ上がってしまったため、自宅近所のクリニックに駆け込んだところ、感染症を起こしているとのこと。抗生物質の服用と抗生物質入りのクリームの使用を指示されました。
この小さなクリニックのお医者様の診断が見事で、薬を変えてから目を見張るほどぐんぐん快方へ向かい、数日後にはただれていた指もきれいになり、指のまたにも薄く皮が張るようになりました。結局、手術から一ヶ月以上もの間包帯生活は続きましたが、9月23日の帰国前には完治することができました。良かった、、、!!
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と、長くなりましたが、これが事の経緯です。
入院生活というのは実に特殊なもので、限られた空間で、限られた物のみを使い、日常生活と同じ24時間を過ごさなければなりません。毎日とにかくやることがなくてうんざりしましたが、私以上に退屈しているムスメを飽きさせないよう、だいぶ神経を使いました。これが心底辛かったことの一つ。
合計して約3ヶ月間の入院中は、とにかく一つ一つの小さな用事をもの凄く丁寧にゆっくりと時間を掛けて行うようにしました。朝起きる、着替えさせる、朝御飯を食べさせる、歯を磨かせる、私が朝食を取る、食器を洗う、私が歯を磨く、プレイルームで遊ばせる、これだけやっても時計を見るとまだ朝の9時半だったり、、、。途方もなく長い時間を、毎日全く同じスケジュールで過ごすわけです。これにはムスメ共々本当に参りました。
付き添いの親への食事は出ないため、私の食料を調達する必要がありましたが、ムスメを一人病室に置いておけないため、両親か友人か姉夫婦が来てくれないことには外出もできませんでした。これがもう一つ辛かったこと。実家から病院まで電車で2時間とだいぶ遠く、その道のりを2日おきに通ってくれた両親は、途中母が過労で体調を崩し、父に至っては私たちのアルゼンチン帰国5日前に心筋梗塞を起こしかけて緊急手術となりました。本当に、家族に多大な苦労をかけ、友人たちにも支援してもらい、なんとか乗り切った感じです。
何より一番辛かったこと。それは、麻酔が体に合わず、手術後はいつも夜中まで苦しそうに吐き続けてしまうムスメを何度も見なければならなかったこと。先にも書きましたが、ムスメは度重なる入退院にも、食事制限にも、痛い処置にも、つまらない入院生活にも文句は言いませんでしたが、唯一手術室へ連れて行かれる時だけは毎回私にしがみついて号泣しました。そんなムスメを何度も何度も手術室へ連れて行かねばならなかったこと、ムスメを一人置いて手術室を後にすることが、毎回耐え難かった。
これまでアルゼンチンで手術をしていた時は、いつもダーリンと手術が終わるのを一緒に待ったり、看病するのも交代したりしていましたが、今回はダーリン不在の中一人で対応しなければならないことも多く、それもまた堪えました。
実際、約6カ月もの間、私とムスメは24時間体制でべったり一緒でした。この間、ムスメの保育園なし、お友達なし、自分のおもちゃなし、入院中の3ヶ月間に至っては外出の自由なし、おやつの自由なし、ずっとママと二人きりという状態だったので、ムスメにしてみたらもうママなんて顔も見たくない心境だったことでしょう。
今回のハードな経験を通じて、ムスメのことが少し分かったなと思ったのは、この子は「今手に入らないもの」をねだって決してぐずったり文句を言ったりしない、ということでした。パパと会えないことも、パパっ子のムスメのことだから本当はもの凄く寂しかったと思うんです。でも、そういうことを決して口にしない。自分のお家に帰りたいとずっと思っていただろうに、それも絶対に見せない。とにかく我慢強いんです。そして、他のお子さんが治療で泣いたりするのをとても心配する、心の優しい子でもありました。ムスメの態度には本当に救われましたし、賢く強いこの子は私の誇りだと、胸が熱くなることばかりでした。
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最後になりましたが、お世話になった看護師さん達とお医者様達にこの場をお借りしてお礼申し上げます。日本の看護師さん達は皆さんテキパキと無駄がなく信頼できる方たちばかりでしたが、中には私の精神状態にまで気を使ってくださる看護師さんもいて、そんな方達の親身な対応や暖かい励ましが入院中の私の心の支えになりました。(ダーリンは日本の看護師さん達の可愛さにメロメロでした)
形成外科チームの先生方は、手術内容の急な変更などにも臨機応変に対応してくださり、可能な限り私たち家族の想いを汲んで治療に当たってくださいました。主治医の先生方はお忙しいにも関わらず長い時間を割いて相談に乗ってくださいましたし、若い先生方は毎日の処置の時間に楽しい話をしてくれて笑わせてくれました。先生の中にはわざわざムスメのためにちびまる子ちゃんのキャラクターグッズを買って来てくださった方もいて、そんな暖かさに救われる思いでした。
他にも、毎週火曜日に美味しいお菓子を持ってお見舞いに来てくれたNちゃん、時間ができると手作りお弁当を持参して駆けつけてくれたRちゃん、私のお誕生日に山のような差し入れと共に現れたMちゃん、手術後の手の包帯を考慮して甚平さんを差し入れしてくれたAさん、長電話で相談に乗ってくれた北海道のIちゃん、励ましてくれたアペール症のお子さんを持つお母さん方、休みの度に夜まで付き合ってくれた姉、二日おきに通い続けてくれた両親、応援に来てくれた全ての方に心から感謝します。