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アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

手術の詳細 その1

早いものでムスメの手術から1ヶ月が経ちました。

お蔭さまでムスメとっても元気です。1歳9ヶ月にもなると、1日1回1時間程度のお昼寝しかしてくれなくなり(だからママの時間は更に少なく・・・泣)、それ以外は遊び倒しています。そんな姿を見る限り、1ヶ月前に頭蓋骨を開けられた子にはとても見えません。

手術後は1週間ずっと寝ていたこと、体重が1キロ落ちたことなどで体力も筋力も弱まり、もともと細かった足もまた枯れ枝状態に。本人もそんな変化を感じてか歩行訓練もやりたがらず、リハビリに行っても泣き倒し、すっかりパパっ子ママっ子の繊細な甘えんぼちゃんになってしまいました。私も、あれだけの試練を乗り越えたのだし、思い切り甘やかしてやろうと思ってきましたが、1ヶ月を目処にそろそろお尻をたたき始めないとなー、というところ。

さて、この間何度か手術の詳細について書きかけたものの、上手く頭が整理できずに今日まできました。でもこのままだと細かいことを忘れてしまいそうなので、新しいパソコンもようやく我が家に来てくれたことだし(超快適[emoji:e-420])、数回に分けて自分のための記録として残しておこうと思います。今回の経験は決して忘れたくないので。

9月14日(手術当日)

今回はガラハム病院への入院も二度目で、手術室へ連れて行かれるまでの流れが分かっていたので、私的にはだいぶ落ち着いて準備、対応ができました。そして私が落ち着いていた分、ムスメもまたリラックスしていたように思います。

前回は指示された通り3度もお風呂に入れましたが、今回は他のお母さん達からのアドバイスも受け、誤魔化して2度しか入れませんでした。最後の入浴後に着せるよう渡された紙の入院服はゴワゴワして着心地が悪いだけでなく、やたら体を温めすぎて前回も汗まみれになってしまったので、今回は私の判断で清潔なコットンのパジャマで待機させました。

結果的に、こうした私の判断に対してさほど病院側もうるさく言わないと分かりました。実際、手術室前の待合室に入室後、例の紙の入院服を着せたところ、やっぱりムスメの体温は急上昇して37.1度に。

これでまた手術が延期になるかとひやっとしましたが、麻酔医は前回の経緯も踏まえた上で「この入院服は体を温め過ぎる。一旦脱がせて、手術室の中で再度熱を計ってから、手術を行うかどうかを決めましょう」と執刀医に提案。こうして朝9時にムスメは手術室へ入り、私とダーリンは廊下で待機していましたが、その後1時間が経っても何の連絡もなかったため、無事に手術が始まったと判断し、入院していた部屋に荷物を取りに戻りました。

そこから廊下で待つこと数時間。当初は4時間程度で終わる手術と言われていましたが、私達はもっと長引くことを予想していました。昨年の手術は額部分の処置だけであったにもかかわらず7時間ぐらい掛かりました。今回は更に後頭部と額部分の両方が対象となっていたため、4時間で済むはずがないと思っていたのです。案の定5時間が過ぎる頃、執刀医の一人である形成外科医のエマ先生が手術室から現れ、更に数時間は掛かる見通しと知らせてくれました。

いわく、後頭部の処置は済み、額部分の処置が始まったが、昨年の手術で額に入れられた素材をはがすのに脳外科の執刀医が苦心しているとのこと。癒着が激しく、既に失血も多いため、これ以上の失血を避けるために細心の注意を払ってはがしていると説明を受けました。なお、当初は後頭部の処置が終わった段階でムスメの体調が思わしくなければ一旦手術を中断する可能性ありと言われていましたが、この分だと恐らく全ての工程を終わらせられる見通し、とも言われました。

巨大なガラハム病院には多数の手術室があり、ムスメの手術当日も10人ほどの子供が同時に手術室へ入り、その家族達が同じ廊下で待機していました。そしてそれぞれの手術が終わるごとに一家族一家族と姿を消して行き、最後には私とダーリンだけががらんとした人気のない廊下にポツンと取り残されたのでした。ダーリンは努めて熱心に本を読み、私もまた集中してムスメのカーディガンを編みました。そうでもしないと、とても耐えられない長い長い一日。

結果、ムスメは7時間半もの長時間、一人で手術に耐えてくれました。

手術室から先に出てきた脳外科医は「他の医師による手術を既に受けていたこと、そして彼女がアペール症の中でも重度のケースで顔面の陥没が著しいことで手術は難航したが、幸運にも行わなければならない処置は全て行えた。極めて複雑で難しい手術だったが、成功したと言え、自分も満足している」と説明してくれた後「でも僕は今ウイスキーが飲みたい!」と苦笑しながら去っていきました。

その後現れたエマ先生も「ガラハムでは毎週一人か二人のアペール症児を手術しているが、彼女はこれまでに見た中でも最も重度なケースのひとつ」と前置きした上で、「額部分の形の大幅な整形ができ、脳に十分なスペースを与えることができた。顔側面の飛び出ていた部分も形を整え、頭部全体が丸くなった」と報告してくれ、そのまま私達をICUへと案内してくれました。

この時はただただムスメが命あって無事手術室から出てきてくれたことに感謝し安堵していたのですが・・・嵐はその後にやってきました。

ICUに連れて行かれ、扉の前で待たされること約2時間。小さな窓がついた扉の向こうには、ムスメの入れられた個室から看護師たちが出たり入ったりする姿がありました。この2時間のまた長かったこと!!何度も呼び鈴を鳴らし、入室可能かどうか尋ねましたが、なかなかOKの返事はなく、ようやく許可が下りたと思って駆け込んだところ、ちょうどムスメに投薬をするところだと看護婦に言われ、すぐに追い出されてしまいました。

そして、そのわずかな間に目にしたムスメのあまりにも痛々しい姿に、私は激しい衝撃を受けたのです。

パンパンに腫れた顔と手足、口に差し込まれた人工呼吸器の太いカテーテルとその隙間から飛び出した舌、血のこびりついた耳、体中に繋がれた10本ほどのケーブル、ベッドの手すりに固定された手足に残る無数の針の跡、そして開かないようにと黒い糸で縫い閉じられた両目。

それは今朝まで明るく笑っていたムスメの姿とは似ても似つかない、壊れた人形のようでした。そして、この子をこんな風に壊したのは私だ、と心が凍りつきました。

昨年の手術の際は、手術室から出てきた時点で既に目を覚ましていて、私達のこともしっかり見て認識していたし、人工呼吸器にも繋がれずに済んだため、術後の姿にこんなに衝撃を受けなかったのです。

ICUから出されて再び廊下に座り込み、嵐のように襲っていた激しい後悔にめまいがしました。手術前の元気な姿を思うと、自分がとんでもないことをしてしまった気がして頭が混乱ました。可憐に咲いていた花を踏みにじって台無しにしてしまったのは私だ、こんな手術させるんじゃなかった、と自分をどうしようもなく責めました。

たとえそれが知的障害を避ける為に必要な手術であったと頭では理解しても、感情がついていかなかった。こんな酷い目に遭わせるぐらいならいっそ何もせず、将来的に知的障害を持ったとしてもそれもまたムスメの自然な姿として受け入れるべきだったんじゃないかと、ほとんど理屈の通らないことまでも考えました。

前のあなたに会いたいよ、ママ寂しいよ、ごめんね、ごめんね、とつぶやくと、涙がこぼれ落ちて止まらなくなり、いつしかしゃくりあげて大泣きしていました。

この日は夜7時過ぎまで廊下で待機しましたが、ダーリンが一瞬入室を許可されただけで結局それ以上会わせてもらえず、二人でホテルへと戻りました。ガラハム病院のICUでは患者が目を覚ますと同時に両親の付き添いが義務となりますが、人工呼吸器をつけられている間は眠らされることになるので、今のうちホテルに戻ってしっかり休み、体力を温存しておくようにと医師達から指示を受けたのです。

手術前夜はほとんど寝られなかったため、この日は倒れるように寝ました。

9月15日(術後1日目)

ガラハム病院には症状別にいくつものICUがあり、今回ムスメがお世話になったのは火傷の患者さんを対象とした集中治療室でした。なぜなら、火傷の場合も今回のムスメのようなケースも形成外科医が主な執刀医となるためです。

このICUでは各患者がガラス張りの個室に入れられますが、重度の火傷を負った子供達の姿は、親なら見るに忍びない姿、でも同時に、親じゃなければ正視できない無残な姿でした。私はムスメの姿にショックを受けましたが、でも他のお子さんのことはまともに見ることすらできませんでした。

そして、この火傷のICUを担当する医師たちは巨大なガラハム病院の中でも最も優秀と言われているそうです。確かに、今回初めて知りましたが、事故で火傷を負ってICUに運び込まれる患者さんの状態は凄まじく、その治療は目を覆うほどに痛々しく、また途方もない時間が掛かるケースが多く、極めてデリケートな対応が求められることから、医師や看護師達には相当の忍耐力、精神力が必要とされるのだそうです。

実はムスメも手術当日の夜と翌日、血圧が大幅に下がり再輸血を必要とするなど、極めて不安定な状態でしたが、その峠を越えてからの回復の早さには驚くものがありました。それは一重にこのICUの医師達および看護師達の仕事ぶりにあったと思うのです。

ムスメが生まれてからいくつかの病院のICUを見てきましたが、私達の町で一番優秀な私立の小児病院と言われ、昨年の手術でお世話になった某クリニックのICUでは何度も看護師の手違い手抜きを目にし、ダーリンともども相当な不信感を持ったものです。しかもこのクリニックではICUへの親の常時立ち入りを許可しておらず、信用のできない場所にムスメを一人残さなければならない精神的苦痛はかなりのものでした。

それに比べて今回お世話になったICUの看護師達の仕事ぶりは、素人の私の目でもはっきりと分かるほど素晴らしく、安心して任せられると感じた分だいぶ気持ち的には楽でした。その代わり、親にも厳しい側面はあったのですが・・・。

と言うのも、ICU内では親は泣いてはならない、という無言の掟のようなものがあったからです。

手術当日翌日と、私はムスメの姿を見るたびに滂沱の涙を流していたのですが、それを見ていた他の親御さんが心配して教えてくれたところによると、親や付き添いが患者の前で涙を見せれば患者本人も動揺し回復に悪影響を与えるため、あまりにも泣く親に対してはいくら呼び鈴を鳴らしても様々な理由をつけて入室させないようにする場合があるんだそうです。「泣きたければ廊下でもどこでも泣いてください。でもここでは泣かないでください」とはっきり言われた親御さんもいました。

さて、手術翌日のこの日は朝8時から呼び鈴を鳴らし続けましたが、結局午前中はムスメに会わせてもらえませんでした。10時ごろに受けた医師からの説明では、昨夜は夜通し不安定な状態が続いたのだそうです。心肺機能が低下し、血圧も大幅に下がったため、血圧を上げる薬を投与して様子を見ているが、現在までのところ期待したような回復は見られない、と。心配な状態であることには違いないが、手術の規模を考えれば充分想定していたこと、とは言われたものの、この時点で既に私はかなり動揺してしまいました。

ムスメが一人で孤独に頑張っている扉の外で、傍にいてあげることもできず、ただただ廊下に座り込み時折呼び鈴を鳴らしては虚しく入室を断られ続けました。昼過ぎにようやく入室できたものの、20分後には酸素の数値が急に下がり、看護婦が慌てて処置するような状態で、そのまま私も再び廊下に出されてしまいました。輸血も再度行われ、不安な想いを抱えて午後の長い時間をダーリンと手を握り合って過ごしました。

あの時私の胸にあったのは、あのいつもの明るい笑顔で私を見上げていた元気なムスメに会いたい、という強い願いだけでした。朝ムスメが機嫌良く目を覚まし、私を見上げてにっこりと笑い、手を伸ばして抱っこをせがむ、あの時間に戻りたいとそれだけを想いました。

今までそこにあった日常、そこにいてくれた人がいなくなる、そんな喪失感を初めて痛切に体験したと言えるでしょう。もちろんムスメは扉の向こうにいてくれる、こうしている間にも暗い闇から戻ってこようと頑張ってくれている、でも、もしムスメに何かあったら、きっと私はそれを乗り越えることができないだろう、とはっきり自覚もしました。

午後遅くになってようやく再入室が認められ、走って会いに行ったムスメの目は、片目だけ黒い糸が外れてしまって半開きになっていました。その何も映っていない目をしたムスメが哀れでまた泣きそうになったけれど、「ICUでは泣くべからず」の掟を思い出し、こぼれそうになる嗚咽をぐっと喉の奥に押し込みました。

「大丈夫だよ、大丈夫だよ、ママが一緒だからもう大丈夫だよ」とムスメに、そして自分自身に言い聞かせるよう何度も繰り返し、ムスメの手をぎゅっと握りしめたものの、その30分後にはまた外に出されてしまい、自分の無力さに腹が立つやら情けないやら・・・。すっかり気落ちしてダーリンに手を引かれるまま夜8時ごろホテルに戻ったのでした。

続く