アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

手術の詳細 その2

9月16日(術後2日目)

実はこの日、首の激痛を抱えて病院へ向かう羽目になりました。と言うのも前の晩、ストレスと疲労からか、入浴直後になんと人生2度目のぎっくり首になってしまったのです。

夜10時頃ダーリンがホテルのフロントを通じて救急往診を頼んでくれたものの、医者が到着したのは夜中の1時頃。しかもこのボンクラ医者、ほとんど薬を所持しておらず「24時間営業の薬屋を探して筋肉弛緩剤の注射を買い、往診してくれる看護師を探して注射してもらえ」とブエノスの土地勘のない私達に対して無理難題をのたまい、更に「往診代40ペソ払ってくれ」と手を差し出したところで私の逆鱗に触れました。

「あんた何しに来たのよ。何に対して料金請求してるわけ?

「こっちは何が何でも明日の朝には起き上がれるようにしてもらわないと困るのよ

「薬がないってどういうこと?何の薬ならあるわけ?痛み止め?だったらとっととそれ注射して!

と、ベッドに倒れたまま激痛で指一本動かせない状態にも関わらず、怒ってぎゃんぎゃん吼えまくる私の剣幕にほとんど逃げ腰になっている医者にたたみ掛け、辛うじて痛み止めの注射だけはお尻に打ってもらったのでした(この注射が無茶苦茶痛かったのは、医者の憎しみが込められていたからに違いないです)。

それでも夜間は1ミリも動けないままでしたが、朝を迎え、頭を持ち上げるのに気が遠くなるほどの時間が掛かったものの幸い何とか起き上がることができたので、そこからは母の気力で服を着替え、ムスメに会いに病院へと飛んで行ったのでした。

そんな人知れない苦闘の末、朝8時からICU前で待機していたものの、結局昼過ぎまで入室は許可されず。

段々と分かってきたICUの動きから判断すると、午前中は医師達の回診があり、その後新しい指示を受けて看護師たちが処置をしたり、血液検査、レントゲン撮影などが行われたりするため、どの親も大抵廊下で待たされることになるようでした。

症状は異なるものの、同じICU内に子供がいるという環境の下、毎日廊下で顔を合わせる他の親御さんたちとは自然に同志的な感情が沸くもので、長い長い待ち時間お互いの子供の状態について話したり、病院内の便利な情報やアドバイスを共有したりと、不思議な距離感で互いに支え励ましあう関係となりました。

「不思議な距離感」と書いたのは、やはり場所はICU。子供の容態が悪化したり回復の兆しがなかったりと、時に緊迫した瞬間を迎える親御さんもいるのです。そんな時はみんなが気を使ってそっと距離をとったり、すれ違いざまに無言で肩を叩き合ったり手を握り合ったり、つかず離れずで見守り合っている姿が印象的でした。

数日も経つと全ての親御さんたちと顔見知りになり、彼らとの会話を通じて、ムスメがこの火傷のICUにいる子供達の中で最も恵まれたケースであることも分かりました。あれだけの長時間の手術を受け、術後不安定な状態でもありましたが、ムスメの場合は予定されていた手術を終えての入院です。事故で運び込まれて来た患者さんとは傷の状態一つとっても格段の差があり、当然回復のスピードも異なるのでした。

ムスメの右隣のブースにいた5歳の男の子は、3歳のいとこと車の中で遊んでいたところライターをいじってしまったらしく、突然車が炎上。救出された時には顔面と両手に酷い火傷を負っており、片方の手の平に至っては骨しか残っていなかったそうです。気の毒なことに3歳のいとこは命を落とし、この5歳の男の子は生き延びたものの、長く痛々しい治療を受けているところでした。

ICU内で泣き過ぎて、一時入室を断られ続けたのは、実はこの子のお父さんでした。でも、泣いてしまうのも分かりすぎるぐらい分かる。我が子にこんな事故が起きたら、泣くぐらいでは済まないショックを誰しも受けるでしょう。

驚いたのは、骨しか残らなかった手の細胞を再生させるための処置です。これはダーリンがこのお父さんから聞いてきた話なので、医学的にどこまで正確な情報か分かりませんが、いわく、治療対象の手を男の子本人の体内に入れてしまうのだそうです。この子の場合はお腹を開き、まるでポケットのようにその中に手をしまいこみ、数週間か数ヶ月過ごすことで細胞が再生されるので、その上に皮膚移植を行って手を整形するのだとか。生き物の体の神秘もさることながら、それを研究し発見する人々がいることに改めに驚嘆しました。

左隣のブースにいたのは、小さなお子さんではなくて20歳のお嬢さんでした。ガラハムは小児病院なので基本的にその年齢の患者さんはいないはずですが、このお嬢さんは「La piel de mariposa(直訳は“蝶の肌”。正式な日本語の病名は分かりません)」という遺伝子疾患を持って生まれ、長年ガラハム病院にかかっていたため現在も引き続き治療が行われているのだと言っていました。

病名通り彼女の肌はとてもデリケートで、ほんの少し掠っただけでも出血し、傷の治りも遅いため、日常生活を送る上でご両親は常に特別な配慮を払ってきたそうです。ところがその脆い肌は体表だけのことではなく、ある日食道の壁に傷がついて穴が空き、気道と食道が繋がってしまったため、食べたものが肺に流れ込み呼吸困難になるという事態が起こってしまったのです。

応急処置として気管切開し、肺まで届く長いカニューレを差し込んで食道との間に壁を作ったそうですが、具体的な対応策がその時点ではなく、検査を続けている状態でした。ここに至るまでの長い闘病生活と先の見えない入院生活を送りながらも、私よりずっと高齢のご両親はいつも背筋をちゃんと伸ばした人たちで、その姿に頭が下がる思いでした。

ICU内で一番入り口に近いブースにいたのは、生後5ヶ月の男の子でした。生後2ヶ月の時点で全身、特に顔面に酷い火傷を負って運び込まれて来たそうですが、連れて来たのは両親ではなく祖父母。あまりに酷い火傷で顔の形がほとんど残っていなかったため、ほぼ全ての部分を整形し構成しなおす必要があったそうですが、奇跡的にも一命は取り留めたのでした。

ところが、「これ以上生き続けさせないで欲しい」という書置きを残し、ある日祖父母も姿を消しました。

この子がなぜこんなにも酷い火傷を負ったのか、両親はどこにいたのか、と言う疑問がますます深まるだけでなく、完全な育児放棄として医師達が訴訟の準備をしているところでした。

私は、毎日ICUに入るたびにこの子のブースの前を通るのがとても辛かった。薄暗いブースの中で沢山のケーブルに繋がれ、包帯でぐるぐる巻きにされた小さな小さな赤ちゃんが、大きなベッドに一人ひっそりと横たわっている。その姿は見るに耐えなかった。誰の胸にも抱かれず、誰にも優しくキスされず、誰にも語りかけられず、誰にも愛されない赤ちゃん。これほどの試練をたとえ乗り越えたとしても、この子には一体どんな人生が待っているのだろうかと、今こうしている瞬間にも胸が苦しくなる想いです。

ICUにいた患者さん達はみんなこうして苦しい闘病生活を送っていたけれど、その傍らにはいつも彼らの手をしっかりと握る親達の姿がありました。それがこのICUという過酷な舞台における唯一の救いであり希望であるはずなのに、この小さな命にはそれすらなかった。命を救おうとする甚大な努力に対して、命を絶とうとすること、見捨ててしまうことのなんて安易なことかと憤りを感じました。

この日の午後、ムスメの状態は峠を越えてだいぶ安定し、少し長い時間一緒にいられるようになりました。ドレーンも外され、人工呼吸器も必要なくなり、頭の包帯も取れたことでだいぶ身軽な姿になりました。特に痛々しく見えた瞼の黒い糸(眠らされている間に勝手に開いて目が乾いてしまわないようにという処置)も外されて、なんだかほっとしました。

それでも依然モニターのケーブルや様々なカテーテルが合計9本もついていたため、時折ムスメが目を覚ましては起きようともがき手足を動かすたびに、どれか外れてしまわないかとはらはらしました。苦しそうにお顔を歪め、腫れのためほとんど開かない目を無理やり半分ほど開いては閉じるムスメは、きっと体中痛くて苦しくて、一体何が起こったのかも分からずにとても動揺しているのだろうと胸が痛みました。額や体をそっと撫で、ムスメの好きなお歌を片っ端から歌ってあげたら、少し落ち着いてまた寝息を立て始めました。

包帯が取れたこの日、ムスメの“新しいお顔”が初めてはっきりと見えたのですが、、、そのすっかり変わってしまったお顔に正直かなりの衝撃を受けました。まだ全体的に腫れてもいたのでしょうが、ものすごく突き出たおでこ、しかも横に広くヘルメットのような形の額に違和感がありました。

これがあのムスメなの?と一瞬目を疑いましたが、何よりも久しぶりに一緒にいられた嬉しさの方が先に立ち、ひたすらキスして、手足を撫でて、歌を歌って、ムスメの体の温もりを感じながら夜中の12時過ぎまで付き添いました。

ICU内での付き添いは1人だけしか許可されていないため、ダーリンは夜8時過ぎにホテルに戻り、私は明け方病院内にある施設で数時間の仮眠をとりました。

続く