アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

じいじとばあばと異文化理解

ああ寒いぃぃいぃ~寒すぎです。

こちら南半球ではいよいよ冬本番となり、この家の隙間風の冷たさを1年ぶりに思い出しています。

さて前回ちらっと書きましたが、5月中旬から約1ヶ月間、日本から訪ねて来てくれた両親と共同生活をしました。実はムスメは私の両親にとって待望の初孫です。それなのに地球の反対側に住んでいるうえ(超親不孝)、障害を持って生まれてしまったため、誕生から今日に至るまで、それはもう言葉にできないほどの心配をかけてきました。

もちろん、今回の来アの主たる目的も初孫に会うこと。とは言っても、せっかくこんな遠くまで来てくれたのだし、ブエノスでタンゴショーを見たり、アサード(炭火焼肉)を食べたり、ちょっとした観光気分も味わって欲しい、そして30数時間の旅の疲れをまずはそこで癒して欲しいと思い、ブエノスのホテルを2泊予約。そこへ私が迎えに行くことにしました。

その週末はちょうどアルゼンチンの建国200周年と重なっていたため、ブエノスでも記念の大イベントが行われていて、大通りなどは混雑のためまともに歩くこともできないほどでしたが、夜には有名なEsquina Carlos Gardelで素晴らしいタンゴショー&ディナーを楽しみ、翌日にもタンゴ発祥の地と言われる(後付けらしいですが)観光地Caminitoを散策し、久しぶりの親子3人水入らずの時間を楽しむことができました。

特に父はタンゴに血沸き肉躍る激しい情熱を感じるらしく、ショーのしょっぱなからもうテンション上がりまくりで大興奮&大感動。翌日のCaminito散策でも、タンゴダンサーの恰好をした女性とタンゴのポーズを決めて写真を撮る、という観光客相手の商売に目が行って仕方のない様子でしたが、母に「やめて!はずかしいから!」と叱られ、写真撮影とはいきませんでした。残念。一生に一度のことだったのにね。

この辺までは恐らく両親の中でもアルゼンチンかなり好印象だったはず。でも問題はここから始まるのでした・・・。

Caminitoを見た後、長距離バスに乗ってやって来た我が街、我が家、そして初めて個人的に顔を合わせるうちのダーリンとセドリック。顔合わせは穏やかなものでしたし、ようやく初孫にも会えて良かった良かった!と思ったのも束の間。「人様の家に泊めてもらっている」という極めて日本人的な遠慮と配慮で、なるべく邪魔にならないよう、うるさくならないよう気を使い始めた両親は、家の中で見るからに居心地悪そうにしていました。

そして、どんなに気を使って開け閉めしても「ぎぃぃぃいぃ~~」と地の底から響くようなすごい音を立てる部屋のドア、ガタガタとうるさい上にしっかり閉まらず隙間風の吹きこむ窓、どちらに回しても上手く閉まらない玄関の鍵に困惑し、ドボドボと落ちるシャワーの湯(つまり均一にシャーっと出ない)、火傷覚悟でライターで点火しなければならない恐怖のガス台(慣れるまで相当難しい)、使った後のペーパーを水で流せずゴミ箱に入れなければならないトイレに疲れ、うんざりしてしまったのでした。

父は窓の隙間風に早速やられ、風邪をこじらせる始末。更にある日、シャワーを浴びていたところ突然お湯が冷たくなり、水温調節をしようと蛇口をひねっていたらお湯と水の蛇口が両方外れてどこかへ吹っ飛び、眼鏡を外していたため良く見えないまま手探りで床に転がった蛇口を探している間中、冷たい水がドボドボと頭上に降り注ぎ、「ああ俺は風邪を引いているのに・・・」とすっかり悲しくなってしまったそうです。

「そもそも、なぜこんなにもあらゆる物が上手く機能しないのか

と遂に不満を口にしました。ああ、言われてみれば本当にその通り。そう、こんな生活にすっかり慣れてしまっていた私は、海外生活経験のない両親の目を借りて、改めてアルゼンチンを見ることとなったのです。

なぜ窓やドアが音を立てずにしっかり閉まらないのか。なぜ玄関の鍵が一発で掛けられないのか。なぜシャワーの湯が均一に出ないのか。なぜトイレの紙がすっきりと流せないのか。なぜガス台の着火が自動でできないのか・・・だってここは日本じゃないんですもの。アルゼンチンは先進国ではないし、おまけに我が家は高級住宅でもなんでもない庶民の賃貸なんですもの、お父さん。ごめんね~~~!!

やはり思うに、職人さんを大切にする物作り文化がベースにある日本では、小さなもの、細かい所までもまずきちんと機能するのが当たり前なんですね。そして徹底的に生活を快適なものにしようという創意工夫が人々の発想にあり、それがまた商品として具体化されてもいる。これって実はすごいこと!ほんと、すっかり忘れていた日本の素晴らしさを思い出し、遠い祖国を無性に懐かしく思ったのでした

また日本では市場に健全な競争があり、質や価格で差別化を図ろうとするから、消費者はより良い物を安価で手に入れることができる。ここアルゼンチンにはその健全な市場競争がないのだろうと思います。国内産業は他のラ米諸国に比べれば比較的活性化している方と言えますが、それでも競争になるほどは育っていない。かといって輸入品は高い関税がかけられているからか物凄い値段で売っていいて、これも市場競争の一端を担っているとは言えません。最終的に一般的な消費者は質の悪い国内製品を選択の余地なく買わざるを得ません。

では、どれだけ物の質が悪いのか。

先日ムスメのために買った洋服、洗濯しようとスナップを外してみたら、10個近いスナップ全てが布から外れて落ちました。母がライターでは怖くてガス台に火がつけられないと買った着火マン。日本円にして1000円ぐらいもしたくせに、3週間で火が点かなくなりました。息を吹き込んで膨らませるビーチボールには穴が空いていて1度も使えず、買ったばかりの電球は切れ、電池で動くおもちゃは3回使ったら壊れる始末。洋服の色落ちも凄くて他の物と洗えないものが山のようにあるばかりか、一度洗ったらあちこちほつれて使い物にならなくなる服も沢山あります。

このようにして全ての物が”短期間の消耗品”だからでしょうか。セドリックやダーリンを見ていても、物を大事にするという発想があまりありません。実はこれ、良いものを念入りに選んで買って何十年も使う私のライフスタイルとはかけ離れいて、決して相容れない部分でもあります。やはり私の価値観の根っこには、耳かきや爪切りに至るまで徹底的に使いやすさを追求し、フォームや細工の美しさ、素材の耐久性まであらゆることを考慮して物作りに励む日本社会に生まれ育ったという事実が確かにあります。

さて、もう一つ両親を落胆させたこと。それはこの国の食文化の貧しさでした。そもそもアルゼンチン料理って何?ってことです。アルゼンチン牛が美味しいことは世界的に有名ですが、その美味しいお肉がアサード以外の郷土料理として食卓に並ぶことはあまりありません。他にアルゼンチン特有の食べ物と言えば、エンパナーダと呼ばれる具入りのパイ、ロクロと呼ばれるごった煮ぐらいでしょうか。

ここで両親が比較してしまうのがメキシコです。以前私が住んでいたメキシコは両親と3人で2週間ほど旅行したこともあり、また、一応同じラテンアメリカという言葉で繰られる国でもあることから、今回の滞在中盛んに比較の対象となりました。

そのメキシコ、食文化の豊かさではラ米諸国でも1,2を争う食い倒れ大国と言えるでしょう。市場には海のもの山のもの何でもあり、色とりどりの果物と珍しい野菜が溢れ、値段も安く、道を歩けばありとあらゆる食べ物の屋台がずらりと並び、とにかく人々がいつもどこかで何か美味しい物をもぐもぐと頬張っている姿を目にします。旅行中も両親に食べさせてあげたいメキシコ料理が多すぎて、全てを網羅しきれなかったぐらい!

ラ米諸国のもう一つの食大国と言えばペルーでしょうか。ペルー料理はセビーチェに代表される通り、特に海産物を美味しくいただくレシピが豊富です。ここからは私の勝手な推測ですが、やはり歴史上大きな帝国、文明が栄えた国では食文化が発展するのではないかと思っています。メキシコならマヤやアステカ、ペルーならインカと言うようにです。

これらの国のレシピはバラエティーに富んでいるだけでなく、実に奥が深くて手が込んでいます。何十種類ものスパイスを使い、何時間、何日もかけて完成させるような料理も多くあります。先住民の血が今も濃く残るこれらの高度な文明をもっていた国のレシピは、遥か時の彼方から届けられた歴史の財産と言えるでしょう。

一方アルゼンチンの場合はと言えば、ヨーロッパ系移民が国民の大半を占める移民国家。先住民との血の交わりは薄く、文化のルーツは荒野を走り回っていたガウチョ。牛をどんと殺して解体し、火をおこして焼いて食べていたのが今のアサードの起源でしょうか。そこには時間をかけた繊細な作業も、手間をかけた奥行きのあるレシピもありません。これまでラテンアメリカの4カ国で生活をしてきた私ですが、ここまで郷土料理の少ない国は初めてで、当初相当困惑しましたし、今もメキシコ料理を夢に見るほど恋しく思います

でも、こうした両親のメキシコとアルゼンチンの比較において、メキシコに軍配が上がってしまうのはいたしかたないところもありました。なぜなら、メキシコでは綺麗なホテルに泊まり、観光地やカリブのビーチリゾートを楽しむ”いいとこ取り”の観光客でいられたのに対し、ここアルゼンチンではほとんどの時間を私たちの家で過ごす”現地生活”を余儀なくされたからです。

平日は私がムスメと共に自宅に缶詰になっているため一緒に外出することができず、スペイン語の出来ない両親が出かけられる先と言えばスーパーか公園だけ。母はまだ私を手伝って家事に精を出すことで暇を持て余すことはありませんでしたが、可哀想だったのはやはり父。日がな台所の日の当たる席で本を読むか、寝室でお昼寝をするかの生活で、とっても退屈だったはず

週末になってようやく街の中心地でお買い物をしたり、この町の一番の観光スポット”国旗モニュメント”へ行くことができましたが、その時の両親の楽しそうな様子を見ていたら、やはり慣れない国で慣れない”生活”をするよりも、いわゆる観光旅行をさせてあげられれば良かったなぁ・・・と私も胸が痛みました・・・。

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これがこの町一番の観光スポット、国旗モニュメント。

背後にはパラナ川が流れ、開けた空間が気持ちいい。

そして極め付けだったのは、これ↓。

ある晩父がダーリンに、「2年前に“孫ができたらアルゼンチンへ行くぞ”と約束したが、その約束を今果たしたぞ」と語りかけたところ、ダーリンに「おめでとうございます」と言われてしまったこと。

これの何が問題か。

そう、父は「君との男同士の約束を果たしたぞ」という熱い想いを持っていたので、「お義父さん、約束を果たすためにわざわざ遠路はるばるお越しいただいてありがとうございました」というダーリンの言葉(と気持ち)を期待していたのです。それなのに「”おめでとうございます”だと?なんて他人事なんだ!」と大憤慨!もちろんその場では顔にも口にも出しませんでしたが、いたくがっかりしたのだそうです。

う~ん、でもこれってとっても微妙・・・・。日本人の私には勿論父の言わんとしていることは理解できましたし、もしかしたら日本のできた婿ならスラスラと口から出たセリフかもしれません。で・も、ラテンアメリカで長いこと暮らして来た私から見たら、孫に会いたくてやって来た義理の両親を快く迎え、寝室を提供している自分こそがありがとうと言われる立場であって、まさか日本から来てくれてありがとうございますと自分が言わなきゃならんとは、ダーリンはきっと思いもしなかったはず

そもそも、父が期待したであろうことは、年長者を敬う文化がベースにある日本人的な発想なのかもしれない?と私もはたと思い至りました。彼らの訪問に対して「ようこそ」と言ったとしても「ありがとうございます」とこちらの人が言うだろうか。逆に私たちがムスメを連れて日本へ行ったとして、そこで両親は「遠路きてくれてありがとう」と言うだろうか?否、やはりこれは、「年長者である私の両親が、私たちのムスメに会うため(そして男同士の約束を守るため)、大変な長旅をして訪問してくれた」からこそのありごうなんですよね、きっと。

後日、そんな解説や異文化比較をしながら両親と話をして、「そうか、なるほどな」と納得はしてもらったものの、「やっぱり国際結婚って大変なんだな・・・」と父。私自身、そうだよねぇ、やっぱり生まれ育った文化的背景の差から生じる衝突の連続だもんねぇ、と改めて思った次第です。

こうして過ごした両親との1ヶ月。彼らに楽しい思いをさせてあげられないという心苦しさは常にあったものの、私としては久しぶりに無条件で自分を大切にしてくれる”家族”との時間をとてもありがたく感じました。特にムスメ誕生後は、自分も周囲もムスメの心配ばかりする日々だったので、誰かに心配してもらったり気を使ってもらったりすることがこんなにも心に染みる癒しになることを忘れていました。

そして何よりも嬉しかったのは、ムスメを見た当初、カニューレやカテーテルが痛々しくて「可哀想可哀想」を連発していたじいじとばあばの口癖が、時間が経つにつれ「可愛い可愛い」に変わったことでした。また、実の娘(つまり私)をあやしたことすらなかったという父(!)にムスメを寝かしつけてとお願いしたところ、その日以来ものすごく積極的にムスメの横で待機[emoji:e-287]。飽くことなくお歌を歌ってあげたり、揺らしてあげたりする父の姿はとっても新鮮でした。

じいじとばあばに沢山あやしてもらって、お歌を歌ってもらって、話しかけてもらったお陰でしょうか、この期間ムスメの表情もぐんと豊かになり、顔いっぱい笑うようになりました。足をブンブン振り回しては、人の顔を見てはにかーっと笑う。

じいじとばあばの初孫として、可愛い可愛いと言ってもらって、抱っこしてもらって楽しかったね、ムスメ。早く元気になって、じいじとばあばに会いに、今度は私たちが日本へ行こうね。