アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

手術の詳細 その5

9月20日(手術後6日目)

朝の段階でこの日の退院はないと分かり、ホテルに戻り仮眠を取りました。でもやっぱり昼寝の習慣がないので、たとえ夜通し起きていても2,3時間程度で目が覚めてしまうのでした。

そして目が覚めている間中、昨夜ムスメを抱けた喜びと、私を見上げたムスメの変わり果てたお顔を交互に思い出しては泣き、泣き疲れては放心し、我に返ってはまた果てしなく考え、そして泣く、を繰り返しました。ホテルに戻っても休むというより、泣いてばかりいたように思います。

それにしても、今から振り返ると、よくもあんなに長いこと泣き続けていられたものだと驚きます。きっと、どれだけ想いがあっても自分の手で何もできないこと、そしてもう後戻りできないことに対するどうにもならない苦しい気持ちを吐き出して、再び浮上する時間として必要だったのだろうと思います。

この日の夕方病院に戻ると、ムスメは既に一般病棟に移されいて、ダーリンの膝の上で寝付けずにぐずぐずと泣いていました。超パパっ子のムスメですが、眠い時、怖い時、病気の時、辛い時はママと一緒じゃないとダメなのは相変わらず。

この時も、前夜ほとんど寝ていないのに昼寝もパパとじゃできず、私が到着した時は眠さのピークを迎えていたようで、抱っこしてほんの少しゆすってあげると、たちまち寝息を立て始めました。

そのまま夜まで眠り続け、私も付き添い用のソファーベッドでようやく眠れるかと思いきや、夜中には何度か咳き込んで目を覚まして泣き、朝も結局5時ごろには起きてしまいました。

9月21日(手術後7日目)

恐らく昼頃には退院になるだろうと思い、ホテルに戻らずこのまま退院許可を待つことにしました。

早朝、エマ先生が一人で病室に現れ「今日には退院できるから」と伝えてくれました。そして相変わらず浮かない顔をしている私を見て、「言いたいことがあるなら言ってちょうだい」と言うので、「ムスメの顔がまだ見慣れないだけ」と正直に答えました。

エマ先生は、手術前のように扁平で縦に長い頭の方がよっぽどおかしく、頭全体の形を見れば今の方が格段に良いと言い、また、お顔は今後の手術でどんどん変わっていく、その都度少しずつ自然な見た目にもなっていくだろうけれど、シンドローム特有の顔つきであることは変わらないだろうと一気に話し、「それじゃあ」と一旦病室を出て行ったと思いきや、次の瞬間突然凄い勢いで戻って来ました。

そして、「最善の努力をしたにも関わらず、相手(私のこと)がそれを分かってくれないというのは、私にとってもちょっと・・・分かるかしら?」と激しい口調で訴えてきたのです。

彼女のそんな”らしからぬ態度”に私はとても驚きました。エマ先生と言えば、知り合ってからこの日まで全く感情を表に出さず、隙のない、どこか人を突き放す雰囲気を持った人でした。ムスメに対してもただの一言も声を掛けてくれたことがなかった彼女が、こんな風に人間臭く自分の感情を剥き出しにしてくるとは思いもしませんでした。

執刀医である彼女が医学的な手術の成功を評価するのは当然です。でも、私は医者じゃない。この大手術が無事成功して心から安堵し、関係者全てに深く感謝もしていたけれど、同時に私は患者の”母親”として、執刀医である彼女とは全く異なる立場にあり、全く異なる感情を当然持っていて、そんなことは敢えて言葉にする必要もないほど明らかなことだと思っていました。

「手術の意図は理解しているし、こうして無事に全てが終わったことに深く感謝もしている。でも母としてこの状況が辛いことも決して理解し難いことじゃないと思う」

そう答えた私をエマ先生はじっと見つめたまま2,3度頷き、「私には実の子はいないけれど、全ての患者さんを実の子と同じように考え慎重に接しているつもりよ」とポツリ。その後は少し態度を和らげ、今後の見通しについてやや丁寧に説明をしてくれた後、すっと病室を出て行きました。

今思えば、きっとエマ先生も術後ずっと私の浮かない顔、泣きはらした顔を見続けてきて、胸にわだかまっていたものがあったのでしょう。お互いにもやもやしていた感情を言葉にしてみた後には、不思議と穏やかな空気が流れたのでした。

さて、この一般病棟は二人部屋で、相部屋となったのは14歳のダウン症の男の子、クリスチャンでした。活発で社交的で屈託のない彼、実は深刻な心臓疾患を抱えていました。心臓の弁が機能しなくなり、手術室に運ばれたものの手の打ちようがなく、一時は最悪の事態を覚悟しておくように言われたと、とても優しい聖母のようなお母さんが話してくれました。

「どんな状態でもいいから、生きてそこにいて欲しい、そういうことがあるって分かるかしら」と穏やかな表情で彼女が言った、その言葉の重かったこと。クリスチャンは奇跡的にその危機を乗り越え、この日もムスメのオモチャに興味深々で身を乗り出しては私たちに話しかけ、そのたびにお母さんに「こらこら」と肩を叩かれていました。

午前中ダーリンがやって来たのでムスメを任せ、昼ごろ一人で院内のカフェテリアへ軽食をとりに出ました。

そこには沢山の子供達がいて、その多くが何かしらの障害を持っていました。松葉杖をついている子、車椅子の子、包帯で頭をぐるぐる巻きにされている子、明らかに脳性麻痺で体がゆがんでしまっている子、片方の目だけ著しく下についている子、カテーテルを鼻に通して酸素ボンベを担いでいる子。そんな子達が昼の日差しを受け、家族と一緒に笑ったり、べそをかいたり、ぐずぐずとわがままを言ったり、美味しそうにご飯を食べたりする姿をぼんやりと眺めました。

私の頭の中では、クリスチャンのお母さんの言葉がぐるぐると回っていました。ムスメの手術前には、出血多量で大変なことになるかもしれない、感染症で命を落とすことになるかもしれないと最悪のことを考えては怯えていた私。今こうしてムスメのお顔をどうこう言っていられるのは命あってのことで、少し欲張りになっていたのだろうかと自問しました。

でも、女の子なら、そして女の子を産んだ母親なら誰しもが気にするお顔のことを、障害児だからと言って気にするなと言うのはそれもまた酷なことだと思いました。「脳が救われたのだから、顔なんて些細なことだ」という理屈は果して正しいのか、乱暴なのか。

きっと、ある意味正しいけれど、とても乱暴なのだと思った。その「乱暴だけど突き詰めていけば正しい結論」にたどり着くには気持ちが追いつかず、だから泣いてもがいてあがいて、少しずつ胸にある激情を収めようとしていたのでしょう。

そう、きっと人間は、突き詰めていけば「命あれば」というところにたどり着く。でも一度命が確保されれば、きっと誰もが自然により良い”もの”を求め始める。より良い頭脳、より良い容姿、より良い性格、その先にあるのはやっぱり、より良い仕事、より良い恋人、より良い生活環境 etc.・・・。そういうものを求めて努力したり、気を配ったり、お金をかけたりする、その人間という生き物の”性質”を「欲張り」とは言えないんじゃないか。それは障害児として生まれてきた我が子と、産んだ母親の私にだって言えるはず。

生まれた時から多くの病院関係者にしきりに「ムスメさんの日々の生活の質を大事にしてあげて」と言われてきました。その意味するところは理解できたつもりだったけれど、同時にそれは「障害児だから健常児みたいな人生は送れないだろうけど、せめて毎日楽しく生活させてあげて」と言われているようで、密かに悔しさをかみ締めてきました。障害児と言われても、どの程度の障害が残るかまだ分からない段階で既に”諦めろ”と言われている気がしたのです。

こうして、この世に誕生した瞬間から”障害児なんだから”と括られてきたムスメ。沢山の治療や手術を受けて、健常児に近い生活を送れるようになるため長い道のりをたどっていかなければならない我が子。でも、じゃあ健常児なら幸せなのか。

かくいう私は健常児として生まれ、健常者として生きてきたけれど、その人生全てに満足して常に幸せだったわけじゃない。むしろ、当たり前に持っているものに気づきもせず、持っていないものに頭を悩ませ、やろうと思えば何でもできたのに、悩んで迷って大したこともせずに歳を重ねてきてしまった。社会に溢れる多数派の健常者の全てが幸せかと言えば、やっぱりきっとそうじゃない。それってなんだかとてももったいない。

こんなに素晴らしい条件で生まれてきたのに、人生を謳歌しなかったら罰が当たる。

取りとめもなく当て所なく、昼下がりのカフェテリアで答えも結論も着地点も何も見つからないまま考え続け、ふらりと病室に戻るとムスメがキャッキャと笑いながらダーリンと遊んでいました。ムスメの笑顔を見てほっとして、ようやくグルグルすごい勢いで回っていた思考の渦がゆるやかに消えていきました。

そしてそのまま午後5時までみんなで血液検査の結果を待ち、何の問題もなしと太鼓判を押してもらって、晴れて退院となったのでした。

アルゼンチンでは春の日だったこの日、ムスメに久しぶりに洋服を着せ、親子3人でぽかぽか陽気のお外に出られた時の無上の喜びは、すがすがしい開放感と達成感、そして深い安堵の入り混じったものでした。ムスメ以上にはしゃぐダーリンを見るのも可笑しく、3人で浮き浮きとご機嫌でホテルへ向かいました。

そしてホテルの部屋に着き、いつものオモチャで遊び始めたムスメを見てようやく、ムスメのいる生活が戻ってきたと感じました。まだ自宅じゃないホテル暮らしだったけど、日常の中にムスメがいてくれること。ああ、これが幸せってことなんだ・・・。不思議ともう、すっかり変わってしまったお顔があまり気にならなくなっていました。

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ホテルに戻り、これで親子3人やっとゆっくり休めると期待していたのもつかの間、退院当日の21日、翌22日とムスメは全く眠らず、心配になって再度病院へ連れて行くことに。術後のトラウマと長時間の麻酔&ICUでのモルヒネの影響で睡眠の習慣が狂うことはよくあること、と言われました。念のため安定剤を処方してもらったものの全く効かず、遂に23日の夜までほぼ一睡もせずに過ごしました。

起きている間機嫌がいいのが救いでしたが、眠くなる時間帯には寝ようとして寝られずに大声で泣き叫ぶので、1週間以上まともに寝られていなかった私は疲労のピークに達し、これまた寝られずイラつくダーリンと激しくぶつかり合いました。ムスメは体調も悪いのか微熱が続き、心配が私たちの疲労に拍車をかけました。

いつまでこんな状態が続くのかと暗澹たる気持ちでいましたが、23日の夜、ぐずるムスメの熱冷ましにと一緒にぬるめのお風呂に入ってみたところこれが功を奏し、お風呂から上がった途端なんと奇跡のようにコテンと眠りに落ちてくれました。

こうして退院3日目にしてようやく私とダーリンも眠ることができ、辛かった術後の看病生活に一区切りついたのでした。

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9月24日(手術後9日目)

午前11時。

突然、町へ出ようと思い立ちました。

ホテルと病院の往復を続けた1週間、そしてその後のホテル缶詰生活からくる閉塞感が堪らなくなったのです。外の空気を自由に一人で吸わないと叫びだしそうな衝動に駆られ、大急ぎで着替えました。

これまでブエノス滞在中、私がムスメを置いて一人で外へ出かけることはまずなかったため、「外へ行って来るからムスメちゃんよろしくね」と突然宣言した私を驚いて見つめるダーリンを置いて廊下へ飛び出しました。

私がまっすぐ向かったのは、銀行。そこで自分の口座からちょっとまとまったお金を下ろし、繁華街の方へ歩き始めました。空は青く、風は涼しく、申し分のない土曜日の朝。ムスメ誕生以来ほとんど出来なかった”自分のためのショッピング”を思う存分してやろう、と心は既に決まっていました。

多くの観光客で賑わう通りを人ごみにもまれながら歩き、気に入ったお店に端から飛び込み、洋服、バス用品、インテリア、サンダルと手当たりしだい見て回り、白いレースのついたコットンの夏物を3着、白い皮の涼しげな夏用シューズを1足、他にも何枚かタンクトップを購入し、美味しいジェラードを歩きながら頬張り、綺麗な広場でベンチに座って一息つきました。

それから、私たちの帰りを待ちわびているだろうセドリックにプレゼントを買い、ムスメに色の綺麗なサンダルを買い、朝下ろしたお金が尽きた頃ようやくホテルへ戻ろう、という気になりました。

人生の中でこんな風に「散財してやるぞ」と決めて、きっちり散財したことってあんまりなかったけれど、時間も何も気にせず、ただ好き勝手に歩いて、立ち止まって、買い物をして、お店の人と他愛もないおしゃべりをして時間を過ごしせたことで、びっくりするぐらい気分がすっきりしていました。それはきっと、お買い物が楽しかったからと言うよりも、久しぶりに病院も注射も手術もレントゲンも寂しい廊下も涙も暗いICUも包帯も頭になかったから。

まるで体の隅々まで空気を入れ替えたようでした。病院の消毒液の匂いに混ざってずっとくすぶり続けていた私の疑問、後悔、苦悩もすうっと体から抜けていました。そして、これまで経験したことのない、あの激しく吹き荒れていた感情の嵐も過ぎ去り、ホテルに戻って再びムスメのいる日常がしっかりとそこにあるのを見つけた私の心は、その日の空と同じように青く晴れ渡っていたのでした。