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アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

7年目の再スタート その2. 面接日、それは気付きの1日

今日は私が昨年から散々悩んでいたお仕事の話です。今回応募を決めたのは、以前お仕事をしたことのある某ODA実施機関のブエノスアイレス事務所の公募でした。この機関のお仕事は、人材育成や技術移転等を通じた途上国の底上げや、社会的弱者のためのプロジェクトの実施などで、単にお金を稼ぐ手段としてではなく、私にとっては生き甲斐や自分の存在意義にまで繋がる仕事でもあり、いつか戻りたいと長年思っていました。それが、ムスメの手術が一段落したこのタイミングで滅多に出ない現地事務所の公募が出たことに凄い縁を感じ、また偶然にも、現在の所長も昨年まで所長だった方も、ボリビア事務所時代の私の元上司の方達で、個人的に声をかけていただいたことも背中を押された理由でした。

ところが、履歴書を提出した数週間後、通達された面接日はなんとムスメの誕生パーティー当日(!)。しかもその連絡をいただいた日の朝に、パーティー会場に既に費用を支払ってしまったという何ともタイミングの悪いことになりました。ここら辺から既に、”仕事と家庭の両立”というテーマがちらほらと見え始めてはいたんです。幸い面接日はパーティー翌日に変更していただけましたが、夜9時にパーティーを終え、翌朝早朝には長距離バスに乗って首都に上京するという慌ただしい予定となり、緊張感が一気に高まりました。2月中はこうして誕生会の準備を進めながら、面接の準備にも追われることとなりました。

さて、ムスメの誕生会を終えクタクタになって帰宅して、さて寝ようというところでムスメがまさかの号泣というびっくりな展開となったことは前回書きました。激しくしゃくりあげながらムスメが話すことをよくよく聞いてみたところ「ママが遠くに行っちゃったら私は何にもできない」「お願いだから行かないで」「私と一緒にいて」と。ムスメの涙は、生まれて初めて私と丸1日離れることへの不安が一気に炸裂したためと分かり、胸が張り裂けそうになりました。あんなに楽しそうだったパーティーの後での滂沱の涙は私にとってとても衝撃的でしたし、ムスメをここまで追い詰めてしまったのは何を隠そう私の責任でもあり、猛烈に反省しました。そう、今回の応募を決めてから、仕事をするかもしれないこと、そうなったら首都に引っ越すかもしれないことなどをムスメにも少しだけ話していたんです。

実は面接前の1週間、別の形でもムスメの不安は現れていました。連日おトイレの失敗を繰り返していたんです。最初はなぜだか分からず、下着を汚すたびに「なんでおトイレに行かないの?」と怒っていたのですが、これと全く同じことが1度目の日本帰国の前にもあったことを訓練士さんから指摘されてハッとしました。ムスメは精神的に不安定になると”そういうやり方でSOSを出す”と言われ、初めて客観的に私の首都上京や仕事などの可能性がムスメに与えている影響について思い至りました。それでムスメと向き合ってきちんと話をしてみたところ、その時は「ママがブエノスに行っても平気」「心配しないで」と気丈に振る舞っていたのですが、胸に秘めていた不安が前夜になって遂に抑えきれなくなったようでした。

7歳にもなって、と言ってしまえばそれまでですが、これまで何度も辛い経験を乗り越えてきたムスメにとって、私たちの関係は母と子以上に「命綱」的な要素が強く、距離的に丸一日離れることや、その先に待っているかもしれないもっともっと大きな変化に、ムスメが不安を感じていたのはむしろ当然のことでした。泣きじゃくるムスメを抱きしめてあやし、ようやく寝入ってくれたのが11時半ぐらいのこと。緊張と極度の疲労で、私が眠れたのはそれから更に後のことでした。

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面接当日は5時に起き、シャワーを浴びてゆっくりコーヒーを飲み、荷物をチェックして、7時過ぎには家族が寝静まる家を後にしました。疲れてはいましたが、数年ぶりにタイトスカートをはき、アイロンの効いたシャツを着て、ヒールの靴でカツカツとターミナルを歩くのが嬉しく、ちょっぴり誇らしくもありました。この日を迎えるまでに、最近の国際支援の流れや日本のODA事業についてなど勉強して準備し、それらをまとめたペーパーをバスの中で読み直したりしながら、12時に首都に到着。2時の面接前に、同じくこの面接を11時に受けた首都在住の日系人の友人とスターバックスで待ち合わせて一緒に昼食を摂り、その後、面接会場へと向かいました。

面接では元上司とも12年ぶりに再会し、和やかな雰囲気で話しができましたが、お仕事の内容は新プロジェクトの責任者と説明を受けた途端、気持ちが大きく揺らぎました。私のこれまでの経験上、今回の募集内容はあくまでもプロジェクトのアシスタント的業務になるだろうと想像していて、まさか責任者という大役を提示されるとは思ってもみなかったからです。更に、少人数の事務所であるため仕事量は多く、残業は日常的に当たり前、国内出張の頻度も高いとのことでした。ここまでは内心冷や汗をかきながらも、自宅残業をするなりしてなんとか乗り切れるかもしれないと考えたのですが、就労条件として、子供が病気の際に休めるかどうかと聞いたところ、それは非常に難しいと即答され、これが私の中で決定打となりました。

働く母に対する日本の企業や組織の対応がどのようなものなのかよく知らないのですが、アルゼンチンでは子供が病気の時などは働く母親が欠勤しても認め、通常通りの給与を支払うことが法律で義務付けられています。それはつまり、社員や職員はその任務以上にいざという時は母親であることが尊重されるということでもあります。事務所はアルゼンチンにあったとしても日本の組織である以上、ここら辺の対応はどうかなと懸念していたところ、やはりアルゼンチン流とはいかないことが分かりました。

いつかは働き出す私の横で、ムスメが自立していかねばならないことは明白でしたし、それでも一緒に過ごせる時間が極端に減らないように、なるべく自宅で仕事するような方向で考えてはいましたが、最も気の弱くなる病気の時に私が出張でいない、と言うような事態は絶対に経験させたくない、そこまでムスメを犠牲にはできないという思いと、昨夜のムスメの泣きじゃくる姿が頭をよぎり、その瞬間、迷っていた自分の気持ちに決着がつきました。思っていたよりもずっとあっさりとはっきりと、明確な答えが降ってきた瞬間でした。今の私には、このお仕事はまっとうできない。これは私がすべき仕事ではない。

その後の受け答えは力の抜けたものとなりました。アピールすべきところも笑顔で「はい」と答えるだけの私に、きっと面接官の方たちも拍子抜けしたことでしょう。取りあえず穏やかな雰囲気の中面接は終了し、1週間以内に指定のテーマについて論文を書いて送り、そこで選考過程は終了となるはずでした、が、私はこの時点でもう論文は出さないこと、選考から辞退することを決めていました。

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この日、ブエノスアイレは体感温度38度の猛暑で、朝には誇らしく感じたフォーマルな服も、バスターミナルに着く頃には汗でぐっしょりと濡れて不快になりました。数年ぶりにはいたヒールのせいで足は地獄のように痛み、ちょうどカーニバルの連休初日の金曜日だったため、ターミナル周辺の大混雑にもうんざりしました。面接前には首都でのお洒落な生活に想いを馳せたりもしましたが、愚かな私はそれが幻影だったことにこの時初めて気づき、R市ののんびりした空気が急に懐かしく感じられました。凄い人出で帰宅のバスのチケットも取れず、痛む足を引きずって散々歩いて見つけたチケットも出発は3時間半後。人で溢れかえる蒸し暑いターミナルのベンチで一人じっと、色んな想いを抱えて出発を待ちました。

この日は私にとって図らずとも”気づきの一日”となりました。例えば、若かりし頃一人旅が大好きだった私にとって、数年ぶりのこの”一人上京”はきっと楽しいものになるだろうと思っていたのに、蓋を開けてみたら全然楽しくなかったんです。特に帰りのバスの中ではものすごく退屈しました。終わりのないパンパ続きの風景が、覚めることのない虚ろな夢のようで、数時間の道のりが永遠にも感じられました。それはきっと、いつも隣にいるはずのムスメがいなかったから。その事実に私が一番びっくりしました。残業だって以前はむしろ好きでした。ボリビア時代には夕方事務所が閉まって、電話や来客で中断されることのない夜間に集中して仕事を片付け、同僚たちと晩ご飯を食べに行ったりするのが楽しかった。でも、それは独身時代だったからできたこと。今となっては、履き慣れたはずのヒールで足は痛み、シワが気になる服も着心地が悪かった。いつの間にか色んなことが大きく変わっていたことを、恐らく初めて認識したのでした。

この話しをこちらの友人にしたら、「面接に行ったことで、これまで閉じることのできなかった過去をようやく閉じられて良かったね。それはとても必要なことだったと思うわ」と言われ、深く納得しました。本当にその通り。いつでも戻れると思っていた過去は、そう簡単にはもう戻れない場所になっていた、否、もう”戻らなくてもいい場所”にもなっていたのかな。必要なものはもう全部持っていた。そのことを理解するのに今回の経験はきっと必要だったのです。

夜10時過ぎにR市に着いてバスを降り、自宅に向かって歩いていたら、偶然私の親友のナタリアが子供達と車で通りかかり「アマンダー!!」と家族皆んなで声をかけてくれました。この小さい”村っぽさ”に心が緩み、ああ、ここが私の場所なんだなぁとしみじみ。家のドアを開けると同時に飛び出してきたパジャマ姿のムスメが愛おしくて、抱きついて離れない我が子を抱っこして2階に上がり、寝かしつける幸せに身も心も満たされました。「ただいま」。優しい顔でウトウトと眠りにつくムスメにそっと言いました。それはここ数ヶ月の間、気持ちまで遠くに行っていた私が、やっと戻ってきてムスメにかけた言葉でもありました。

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翌朝、家族が皆んな出かけた後、お気に入りの音楽をかけて一人机に向かい、詩の翻訳を始めました。ブエノスアイレスから戻るバスの中でお仕事の依頼があったのです。静かな家で、大好きなKevin Johansenを聴きながら、天井のファンの涼しい風を感じつつ詩の翻訳をする。ふと目をやると、窓から見える庭の緑がとても綺麗で、心の底から「ああ、これが私の幸せなんだな」と思いました。私が探すべき道は、首都に引っ越して猛烈に仕事をする方ではなく、”こっち”の方だったんだと。自分が既に持っていたものや環境が、いかに素敵なものだったかをやっと認めてあげられた気がしました。

不思議なもので、この面接日を境に連日翻訳の仕事が大量に舞い込むようになりました。また、特に探したわけでもないのに、突然日本語のプライベートレッスンの依頼が立て続けに3件入るなど、「首都へは引っ越さない。R市に残る」と決めた瞬間に、R市でできるお仕事が雪崩を打って姿を現したようでした。クリスチャンの友人曰く「神様が、”ここがあなたの場所だよ”と示してくれている」んだそうで、特に信仰を持たない私でも、解釈としてはその通りかもしれないと思いました。

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告白すると、私の中には常に二分される自分がいました。物作りが好きで美大に進み、バックパックを背負ってアジアを放浪する自分と、一夜漬けでもそこそこ成績も良く、きちんとオフィスで責任のあるお仕事をする自分。フラフラと一人旅をしていれば「こんなことをしていていいのか」という内なる声が聞こえ、オフィスでデスクに向かっていると「本当にここが自分の場所なのか」という疑問が湧く。どちらが本当の私なのか、どちらに向かって歩いていくべきなのかこの歳になるまで分からず、ずっと迷っていました。だから今回の、R市に残るか首都で仕事をするかと言う選択も、ある意味この二つの自分の間で揺れ動いた結果の迷いだったように思います。

子供の頃から何をやっても割と器用にできて簡単に及第点を取ってしまい、その結果すぐに飽きてしまう傾向がありました。周囲からは何でもできる人と思われたことも多かったけれど、それは決して事実ではなく、実は何をやっても中途半端な自分を心の中では恥じていました。「器用貧乏」という言葉を聞くと、今でも胸が痛むのはそのせい。散々悩んで迷って時間が経って、最終的には何者にもならなかったのが今の自分だと長年もの凄いコンプレックスを感じていて、アマンダなら何者かになる、そんな周囲の楽観的な”期待”が苦しくて、気がついたら地球の裏側まで来ていました。ラテンアメリカが好き、スペイン語が好き、それは事実ではあったけれど、同時にここに至るまでの私の道のりは長い長い逃避行だったかもしれないと、今振り返ると思うのです。それでもこうして歳をとり、立場や環境や役割が変わり、物理的に少しずつ可能性が狭まっていくことで自分の道がようやく絞られて来た気がする。それは、少し寂しいような、ほっとするような気持ちでした。

もう一つ。首都でのお仕事が決まれば、これまで散々心配をかけてきた両親にちゃんと安心してもらえる、そして認めてもらえる娘になれる最後のチャンスになるとどこかで思ってもいました。なので辞退を決めた後、両親のことを考えてしばらくの間かなり落ち込みました。ところが、面接日の直後から約2週間ムスメが体調を壊して高熱を出し、抗生物質を4度も変えられてもなかなか快復しない事態となり、私は決まっていた通訳の仕事の準備とムスメの看病に寝ずに追われることとなりました。この2週間、4時間ごとに40度近い熱を出すムスメの額に冷たいタオルを乗せながら、「もし首都で仕事をしていたらどうしていたんだろう」と何度も考え、辞退した決断は正しかったのだと改めて確認する機会となりました。

そしてこの時、実家の母から告白されたのです。「R市に残ってくれて良かった。首都で仕事をすることになったらどうしようかと、実はとても気に病んでいたと」と。それを聞いて、ああ、そういうものかとほっとして力が抜けました。私がこれまで勝手に思い込んでいた両親の”期待”も、周囲の”期待”も、実はてんで見当違いだったのかもしれません。自分で自分を追い詰めて、一人相撲をとっていただけだったのかもしれないと、長年の呪縛から解き放たれた気がしたのでした。

もしかすると「可能性が狭まった」と考えるよりも、これまで対極にあった二つの選択肢だけでなく、母となった今の私には「ムスメを中心に自分の力でできるお仕事を”作って行く”」という第3の選択肢ができていた、と考えた方がいいのかもしれません。

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ムスメの病状はどんどん悪化し、肺炎一歩手前までになり、一旦は回復しかけたものの再び高熱が出た途端、激しい耳の痛みを訴え始めました。そう、肺炎球菌が原因で中耳炎になっていたのです。更に通訳本番前夜、私が最後の追い込みをかけて勉強していると、ムスメがベッドで嘔吐。救急で往診を頼み、お医者さんが到着したのは夜中の1時で、私はまだまだ暗記が必要な単語リストを片手に朝までムスメの看護をすることに、、、。

こうして、私の人生初の逐次通訳体験は、母として家事育児と仕事を両立して社会復帰するための”洗礼”となりました。もう、後は体当たりでやるしかない。

涙なしには語れない、通訳本番のお話はまた次回。