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アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

7年目の再スタート その3.世界中の通訳者に敬意を込めて

シリーズ第3弾の今日は、人生初の逐次通訳の体験談です。実はワタクシ、名ロシア語通訳者で、類稀なる文筆家としても活躍された故米原万里さんの大ファンで、彼女の残した数々の名著を通じて通訳者に欠かせないものは言語の知識だけでなく、度胸や開き直りと理解していました。なので、臆病でハッタリの効かない私、しかも妙に完璧主義で少しの失敗で自己嫌悪に落ちる自分には絶対に向かないお仕事と常日頃から思っていました。私のようなタイプは、自宅で一人、納得のいくまで悩んで練って仕上げられる翻訳のお仕事の方が向いていると分かっていたのです。

ところが、2月上旬にこのお仕事の話があった時、即座にお断りしたにも関わらず友人に粘り強く説得され、自分試しと、”怖がらない”という今年の誓いを守るため無謀にも引き受けることにしたのが、この大変な経験の始まりでした。2時間の講演会は3月21日にR市の国立大学キャンパス内で開催予定で、テーマは『日本:平和への道』、講演者として日本から著名な歴史家であるI先生がいらっしゃると聞かされました。

2月はムスメの誕生日会とお仕事の面接があったので準備はできないと分かっていましたが、3月21日開催なら面接終了後にも1ヶ月の準備期間があると考えました。在アルゼンチン日本大使館が間に入って調整していたため、ご担当の方にも事前に講演原稿をいただけるよう予めお願いをしておきました。

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さて、前回書いたお仕事の面接が2月24日に終わり、さっそく通訳の準備に取り掛かかった私がまず真っ先にしたのは、ネットで講演者であるI先生の講演動画を探すことでした。Youtubeで2、3本の動画を見つけ、I先生が高齢の方で、ゆっくりと優しい穏やかな話し方をされる事が分かって少し安心しました。次に、I先生のインタビュー記事や、他にも似たようなテーマの論文や記事をネットで探して読み漁り、頻出単語や必要と思われる語彙を片っ端からピックアップしてリストを作りました。

そもそも講演テーマである『日本:平和への道』とは何を意味するのでしょう?この時点での私の予想は、第2次大戦後前後の日本について説明し、特に戦後どのような歩みを遂げて日本が平和国家として国際社会の中で存在感を持てるようになったのか、というような内容でした。ところが、実際に動画や論文の内容を見てみると、歴史を把握するにはある時代だけを切り取って話すだけでは事足らず、例えば、第2次世界大戦におけるドイツをよりよく理解するには、第1次世界大戦後にドイツに課せられた莫大な戦後賠償や、『ミュンヘンの融和』と呼ばれる歴史的事実にまでも遡る必要があることなどが薄っすらと分かりました。つまり、守備範囲がものすごく広く、I先生がいつの時代のどんな逸話を引き合いに出すか分からないという事です。

また、『平和』について語るためには、人類史上の各戦争名や戦略名、各種の国際条約の正式名称、各国関係者の名前や地名、あまたの国際機関名とその略称、果ては戦闘機や空母や弾道ミサイルなどの武器の名称なども必要語彙としてスペイン語訳を網羅する必要があることが分かり、この果てしない準備作業に途方に暮れることとなりました。これら全てを端からピックアップしていくと、あっという間に500以上の語彙が単語リストに並びました。どれだけ調べても、覚えても、まだ足りない。それが準備期間中に生じた脅迫観念で、だからこそ開き直りや度胸が最終的に物を言うのだと身をもって知りました。

こうなると頼みの綱は講演原稿しかないと大使館に何度か確認をしたところ「講演者は原稿を用意しない」というまさかの回答が届き大ショック。そもそもこのお話を受ける時点で、事前に原稿を手に入れてもらうという条件を付けていたので、この展開には正直かなり凹みました。後から思ったことは、きっとプロの通訳者の方なら、よりよい通訳(講演会)のためにせめて話題とするトピックの箇条書きだけでもと粘り強く交渉されるのかもしれないということ。でも、悲しいかな素人の私にはどこまで要求できるものなのか、すべきものかという基準も分からず、参考までにと大使館からペラっと送られてきた過去の講演原稿数枚に目を通し、単語を拾い上げて端から頭に叩き込む作業を始めたのでした。

そしてピックアップした全ての語彙を分野ごとに分けてボイスレコーダーに日本語で吹き込み、再生して単語を聞いた瞬間にスペイン語に訳せるよう口頭練習をしたり、当日のシュミレーションを兼ねて動画を使って訳出の練習をしたりしました。通訳者が取るメモは横方向ではなく、ノートに縦線を引いて仕切りを作り、下方向へ取るという基本的な知識も今回初めて学びました。これは横方向にメモを取ると、改行の際に動かす眼球の動きが大きく、1秒を競う訳出作業には不向きである、という理由からだそうです。ナルホド。なにせ本格的な通訳の訓練経験が全くないので、こうした準備も完全に自己流で、果たしてこんな方法で正しいのかどうなのかもよく分からないまま、必要と思えることは片っ端から全部やった感じです。

幸いだったのは、講演テーマが私にとって興味あるものだったこと。今回の準備を通じて、戦争にまつわる歴史や人類の行動パターンを分析した上で、『平和』が維持される条件とは何かについて勉強ができたことは大きな収穫だったと言えますし、憲法9条や改憲について、今まで以上に明確な答えが自分の中で見つかりました。平和は、「平和平和」と唱えて武力を放棄をするだけで実現するものでは決してないと、歴史的に既に証明されていたのです。

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こうして通訳の準備を毎日朝から晩までしている間にも、急ぎの翻訳のお仕事が引っ切りなしに入り、3月は図らずとも目の回るような多忙な日々となりました。それでも3月に入ってからムスメの新学期が始まったので、これで午前中の4時間は仕事ができると期待していたものの、現行政権と教職員組合が給与を巡って大規模衝突し、学校は例年以上に教員ストライキの嵐で休校続き!!スト&祝祭日で週に2日しか学校がないような状況の中、3月から週2回来る予定だったシッターさんが突然2週間もバケーションを取って不在となり(!!!)、更に追い討ちをかけるようにムスメが月半ばからガタガタっと体調を崩し、遂には2週間もの長きに渡って自宅療養することになってしまいました。

泣きっ面にハチとは正にこのこと。ありとあらゆる悪条件が重なって、通訳当日までの数週間はまるで障害物競走のようでした。日中は4時間ごとに高熱を出すムスメの看病に追われ、ムスメが夜9時過ぎに寝てくれた後にやっと仕事に取り掛かり、夜中の2時3時にようやくベッドに潜り込めたと思ったら、朝6時には抗生物質を飲ませるためにムスメを起こしてまた1日が始まる、そんなとってもハードな毎日でした。

こうしてフラフラになりつつ迎えた公演日前日。講演内容について明確な事前通知が何もなかったため、せめて本番前日にR市に到着予定だったI先生と事前打ち合わせをしたい旨大使館に申し入れていましたが、いざ打ち合わせに向かうため家を出ようとしていた夜7時に宿泊先のホテルから連絡が入り、I先生は大変お疲れのため打ち合わせはキャンセルし、この電話にて翌日の講演会のトピックについて説明したいと言われました。

そこでI先生から早口に告げられたトピックは、半分が全く予想外の内容(!!)。電話口でダーっと説明された事項をノートに書き付け、電話を切った後には呆然とする余裕すらなく、やるしかないと臨戦態勢に入った自分がいました。9時過ぎにムスメを寝かしつけてからパソコンに向かい、守備範囲から漏れていた歴史についてものすごい勢いで調べ始め、そこで出てきた新出語彙を拾ってリストを作り、全て暗記する時間はもうなかったため、どうしても覚えにくい物はテクニカルメモとして当日目の前に置いておくことに決めました。それにしても、プロの方ならこんな条件でも通訳できるのでしょうか?私には神業のように思えましたけど、、、。

ハッと我に帰ると、夜中の12時過ぎでした。作業の手を止めムスメの様子を見に行くと、なんと再び40度の高熱。解熱剤だけでは熱が下がらず、洋服を脱がせてぬるめのお風呂に入れようやく38度台まで下がった頃に往診の救急医が自宅に到着。私にはまだまだ調べなければならないことが残っていましたが、このお医者様がなんとも熱心な方で、切った玉ねぎを枕元に置いておくと良いとか、擦ったリンゴの効力とか、自然療法について熱弁を振ってくださること1時間(!!!)。ついに痺れを切らした私は、ダーリンに後を任せて仕事に戻り、結局この日は朝4時近くまで準備に追われました。

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さて、寝不足のまま到着した国立大学のキャンバスは教員ストライキで講義もなく、がらーんとした空っぽな雰囲気でした。それでも、エルサルバドルで勤めていた国立大学を思い出させる壁いっぱいの落書きアートやアバンギャルドな空気はどこか懐かしく、早めに到着した生徒さんたちとおしゃべりしながら講演者と大使館の方の到着を待ちました。途中、大学関係者が来てテーブルなどをセッティングし始めましたが、その時に分かったのはマイクが一本しかないということ(汗)。講演者と私がそれぞれマイクを持って交互に話すことをイメージしていましたが、ここでは一本のマイクを渡し合いながら話さなければならず、通訳を伴った講演会をする上での最低限の条件も揃っていない印象でした。

結局、I先生が会場に到着したのは講演会開始直前。新聞社のインタビューや大学の学長とのミーティングなどでバタバタと過ごされたようで、私とは挨拶もままならないまま突然講演会が始まりました。極度の疲労と緊張で迎えたその瞬間はなんだかちっとも現実味がなく、「えー、こんなんで始まっちゃうんだ」とどこか不思議ですらあり、まるで夢(悪夢?)のようにフワフワした感覚でした。

私がこれまでの人生でこんな風に緊張した瞬間は何度かあります。市民会館の大ステージで毎年やらされた小学校の時のピアノの発表会。小中高のリレー競技で第一走者だった時。高校3年間の8キロのマラソン大会のスタート時。高3の文化祭でマクベス夫人をやる羽目になった舞台、姉が主催していた劇団の公演で女優もどきをやることになった時。特に舞台の経験は強烈で、今でも舞台袖で待機しているのに全くセリフを覚えていないという恐ろしい夢をよく見ます。

こうしてあれよあれよと始まった講演会は、講演者の発言のキーワードを震える手でメモし、渡されるマイクを受け取って訳出してと必死で、途中、大使館から付き添いできていたS氏から「完璧さよりも大きな声でお願いします」と声を掛けられたものの、そんな助言も頭に入らず前半の40分が終了しました。ホッとして全身が弛緩した休憩時間でしたが、そこで知らされたのは、音響の問題で後方の席の人たちには私の声は全く聞こえていなかったと言う残念な事実でした。私が座らされた席までマイクのコードが届かなかったため、マイクをしっかり受け取れずに前傾姿勢になっていたことも、声が拾われなかった原因と判明。座席を変えてもらったり、マイクテストをしたりと、休憩返上で調整して後半に備えました。

この休憩中に大声を張り上げて音響チェックをしたことでだいぶ緊張がほぐれました。あんなに勉強したのに、前半聞こえなかったと言われて本当にがっかりしたこともあり、後半40分は怒鳴っているのに近い状態で訳出し、それが開き直りにも繋がったのか、気づいたら手振り身振りで若干ノリノリの自分がいました。思い描いていたスマートな通訳者のイメージとは遥かにかけ離れていましたが、でももうこれが今の私の精一杯、という半ばヤケクソ感もあったかもしれません。

それでも何度か危機は訪れました。I先生のお話がだいぶ横道にそれて、ある弾道ミサイルの精巧さを示すために使用されているハイテクの詳細についてお話を始めた時がそれ。弾道ミサイルの機能を詳しく説明するような語彙は私にはなく、しかもだいぶ時間が押しているにも関わらず、その部分の先生のお話がとっても長かったため、思い切ってかなり割愛しました。

別の危機が訪れたのは講演会も終了間際のこと。講演に熱が入り過ぎたのか、I先生は隣に通訳がいることをお忘れになった様子。それまでは1段落お話しされたら私にマイクを渡してくださって私が訳出、というリズムでやっていたはずが、先生のお話が止まらないっ!!!最初は「先生、ちょっと長いな」と思っていた私も、メモが2ページを突破した時には「マズイ」と思いました。そこで「先生」と声をかけてみたのですが、先生は私をチラリと見てニッコリ微笑み、そしてなんと、そのままお話を続けるではありませんかっ!!!会場の空気は一気に張り詰めました。そう、気がつけば聴講者の方達がみんな「この通訳者はどうすんだべ」という心配顔で私を見つめていたのです。

更にしばらくの間熱く話し続けてから、I先生がはっと我に返り「すいません!」と私にマイクを渡してくださった時には、私のメモページは既に3枚を突破していました、、、。訳そうと思えば全文訳せないこともないと思いましたが、既に講演終了時間も大幅に過ぎていて、大使館の方もしきりに時計を見ながら心配顔だったため、一瞬迷った後にかなり端折って訳すことしました。

先生の講演はこれにて終了し、ヘナヘナと力が抜けたのもつかの間。最大の危機はこの後にやって来ました。そう、「質疑応答」の時間にです。ぼやけた音声のマイクを握った聴講者がスペイン語で先生に質問し、私がそのスペイン語を日本語に訳さなければならなかった瞬間、私の疲れ果てた思考が完全に停止しました。後から冷静に考えたところ、一つは、音響の問題でスペイン語がよく聞き取れなかったこと。いつも思うのですが、母国語ならどれだけ小さい音でも、雑音があっても聞き取れることでも、外国語だとそうはいかない、否、私のスペイン語レベルではまだまだできないんです。もう一つは、私が今回練習したのは「日本語→スペイン語」訳であって、突然その逆をやろうとしたところ思考停止に陥った、という事のようです。それは私が己の限界、力不足を身にしみて悟った瞬間でもありました。

この時、凍りついた私を見て飛んで来てくださった助っ人が、大使館からいらしていた若い日本人の付き添いのS氏でした。S氏のスペイン語→日本語訳のなんと流暢だったこと。今回やりとりをさせていただいた大使館のご担当のT氏もそうでしたが、やはり大使館でお仕事をされている方というのは皆さんさすがに優秀だとしみじみ思いました。結局質疑応答は全てS氏が訳してくださり、こうして1ヶ月に渡り私を悩ませた講演会がなんとか無事に終了しました。蓋を開けてみたら、質疑応答をした現地の方の中には公認通訳士をされているような方もいて、こんな通訳のプロを前にして素人臭い仕事をしてしまったと赤っ恥をかきましたが、それでも私的には、”数々の障害と悪条件と恐れを前に逃げ出さなかった”という一点において自分を褒めてあげたい、という気持ちで一杯でした。

タクシーに乗り込み、国立大学を後にしてほ~っと深いため息をついた時、ムスメから携帯にボイスメッセージがはいっているのを見つけました。耳元で「ママ、だーい好き。早く帰って来て。おみやげ買って来てね~」と話すムスメの可愛らしい声に涙が出そうになると同時に、疲れた体と心が暖かく包まれるような気がしました。途中でタクシーを降り、家の近所でムスメにプレゼントを買って家に戻り、ぎゅーっと抱きついて来たムスメを見て、この1ヶ月間は一緒にいても一緒にいなかった自分を実感しました。否、遡ると2月に入ってからずっと、私の意識はだいぶ遠くに行っていました。ムスメもそれを感じたのでしょう。ようやく戻って来た私に嬉しそうにじゃれつき、離れようとしませんでした。

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この時まだムスメの熱は続いていて、その週末、3つ目の抗生物質で快復に向かっていたムスメの症状が急遽悪化。月曜日には再び高熱と共に耳の激痛を訴えるようになり、肺炎球菌が引き起こす急性中耳炎と診断されて、4つ目の抗生物質を処方されることとなりました。アペール症のお子さんが中耳炎になることはとても多いのですが、ムスメはこれが初めてでした。今回、よくあるウイルス性の風邪と診断されていたものが悪化し、2度も深夜に救急窓口へ連れて行ったものの肺炎一歩手前にまでなり、更に中耳炎まで引き起こしてしまったのは、私の精神的な”不在”が大きな原因ではなかったかと、後から猛烈に反省しました。

この7年間、付きっ切りでムスメを見ていた私は、些細な変化にも見逃さずに大病を防げていましたが、今回は仕事の山とストレスで見逃してしまった”信号”が沢山あったと気がついたからです。この時思ったのは、もし首都でお仕事をしていたらどうなっていただろう、ということ。もう7歳だし、とどこかで安心していましたが、そこはやはり健常児とはちょっと違う7歳。この経験を通じて、ムスメの面倒をきちんとそばで見守りながら、私らしくバランスのとれたお仕事をしていく必要性を心から強く感じることとなりました。

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通訳というお仕事に関しても色々と思うことがあります。ラ米滞在も15年となり、元々語学が好きなこともあって、スペイン語ではもうコミュニケーションに困らないと思っていましたが、その程度の語学レベルと通訳者の方達のそれの間には果てしない乖離があることは重々分かっていました。ですが、今回実際に通訳に挑戦させていただいて、誰かの意思を漏らさず汲み取り瞬時にして正確に他者へ伝えるという特殊技能で”言語の壁をすり抜けて自由自在に行き来する”という神業は、生半可な覚悟では成せないということを痛感しました。

私が今回なんとか準備できたのは語彙力ぐらいでしたが、それはもちろんのこと、例えば医療通訳をするのなら医療行為についても理解していなければ、単なる単語の羅列だけでは決して正確な内容は伝えられない訳で、通訳者にはあらゆる分野における膨大な知識と情報と理解力が求めらると言うことです。加えて瞬時の判断力と機転、どんな場面でも動じない度胸、常に最良のパフォーマンスが提供できるような精神力と集中力。これはもう、アスリートと同じだな、と思いました。

グローバリゼーションと言って今こうして世界がどんどん繋がっていけるのも、地球のあちこちで日々地道な努力を重ね続け活躍しているこうした偉人達がいるからだということに改めて思い至り、故米原万里さんと世界中の通訳者の方達に心から敬意を表明したい思いで一杯です。

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こうして私の怒涛の2月3月は、様々な学びと気づきをもたらしてくれた後、嵐が過ぎるように去って行きました。今はどうかと言うと、あれほどすごい量だった翻訳仕事はある日を境にピタッと止まり、増える見込みだった日本語の生徒さんも、結局蓋を開けてみたら増えるどころか減って、あれーっと肩透かしを食らった感は否めません(笑)。

翻訳はどうしても仕事量に波があって、何らかのプロジェクトが始まる時とか、定期報告書を出すタイミングなどに一気に増えますが、それが過ぎると寂しいほど何もなし。日本語クラスも安定感の無い仕事で、生徒さんはお仕事や学校が忙しくなったりすると休んだり辞めてしまったりとなかなか継続が難しい。こうして、気がつけば”振り出しに戻った”自分がいますが、私の中の基準がはっきりした今、以前より的を絞ってお仕事の模索をしていける気がしています。

購入してから6年間ほど放置していた我が家のリフォームも始めました。自由になる時間が少ないので文字通り1ミリずつですが、壁のペンキを塗ったり、古い家具を修理したり、ムスメの部屋用にカーテンやベッドカバーを縫ったりしています。やりたいことは山ほどあるのに予算と時間がほとんどないと愚痴りながらも、この街に住み続けると決めた今だからこそやるべき事が明確になったという満足感と落ち着きはあって、それが今年に入ってから色々と挑戦した結果得られた成果でしょうか。

『7年目の再スタート』シリーズはこれにて終了。そして気づけばもう5月も末!!既に1年の半分が終わりつつある事実にびっくりですが、2017年の後半戦へ向けて、目の前のこと一つ一つに対して丁寧に向き合って行きたいなと思います。