アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

手術の詳細 その4

9月の手術の詳細を未だに書き続けています。

やはりこの経験は今年の、否、私の生涯において一つの分岐点になったと言えるほど大きな衝撃があったので、きちんとまとめておかないと今年が終われない気がするのです(しかし年内に書き終われるのか?[emoji:e-263])。

最近の近況報告と時間が前後して読みづらくてスイマセン。

9月18日(手術後4日目)

術後も4日目を迎えると、ムスメの状態もだいぶ落ち着いてきました。目を覚ましていることも多くなりましたが、相変わらずリアクションは少なく、名前を呼んでも見向きもしない姿に不安を覚えました。こんなに辛い目に遭わせてしまったことを実は怒っているのかもしれない、、、なんて、ムスメのそっけない態度に悲しくなったほど。

とても繊細で過敏にもなっていて、些細なことでよく泣きました。特に私が部屋から一歩でも外へ出ようとすると激しく嫌がって泣くので、看護師さんを呼ぶのも一苦労でした。これほど大変な手術に一人で耐えたムスメは、もう絶対に一人きりでいるのはイヤと意思表示しているようでした。

私がムスメの変わってしまったお顔のことで落ち込んでいたのに対し、ダーリンはやっぱり今回も楽天的で、「可愛くなったよね。前よりもずっといいよ」と。そのコメントにびっくりして、正直に自分の気持ちを告白したところ、逆にびっくりされてしまいました。その態度はもうほとんど「何をわけのわからないこと言ってるんだ」ってぐらいで、全く理解してもらえず・・・。

ムスメ誕生以降ずっと、彼のポジティブな思考にはこれまで本当に助けられてきました。彼が私みたいにどーんと落ち込んだりするような人だったら、きっと二人して沈没していたと思うので。本人それを無理して頑張ってやっているんじゃなくて、根っからそういう人だから羨ましいぐらい。

でも同時に、私の悩みや辛さ悲しみに決して寄り添ってくれない側面もあり、正直に告白すれば、誰かの理解とか「そうだよね」っていう単純な同意が一番必要な時にとても孤独だったりもしました。

この時も私は、巨大なガラハム病院の片隅の小さなガラス張りのブースの中で、胸に渦巻く嵐を抱えながら無言のムスメを一人じっと眺め、とてもとても孤独でした。この、今更考えてもしょうがない”後悔”や、”ムスメのために最善の選択をしたのか”という自責の念をきれいさっぱり捨ててしまうことは、私が一人で乗り越えないといけない課題なのでした。

9月19日(手術後5日目)

ようやく口から胃に通されていたカテーテルが外されました。パンパンだった手足のむくみもほとんど取れ、呼吸もだいぶ安定してきたので、補助的に使われていた酸素も必要なくなりました。こうして毎日少しずつ、体につけられていた管や機械が取り除かれて元の姿に戻っていくムスメを見ると、私の胸苦しさも少し楽になる気がしました。

この日の午後、エマ先生が突然大勢の医者と共に病室に現れ、執刀医としてはもう退院を許可すると言いました。実際に退院するにはムスメの体調全般をコントロールしているICUの担当医の許可も必要になりますが、執刀医が退院許可を出したと言うことは術後の経過が極めて順調であるということです。

エマ先生が退院許可について触れただけで再び大勢の医者を引き連れさっさと出て行こうとした時、疑問で頭が破裂しそうだった私は、それが正しいことかどうか分からなかったけれど、敢えて引き止めました。

これほど不自然に顔が変わってしまうほど額を広げ、前に突き出す必要があったのか。お顔のほとんど変わらない手術と言われていたので、この結果に酷く動揺している、と失礼を承知で尋ねてみました。今から思えば、本当に言ってもしょうがないようなこと。でもあの時の私には黙ってやり過ごすことがどうしてもできなかった。

そもそもこの疑問は、同様の手術を受けているはずの日本のアペールの子供達が、写真で見た限りこんなにすごい額になっていないということから来ていました。日本人の普通のお顔のままの彼らを見て、なぜうちのムスメは違うのかと納得がいかず、その理由がどうしても知りたかったのです。納得できなければ、私は恐らくずっと「日本で手術をさせるべきだった」と後悔し続けるだろうと思いました。

エマ先生はムスメに関して、大変だった手術をなんとか上手くやりきったと思っていたはずで、そんな患者の母親から感謝されるどころか批判的なコメントを受け、とても気分を害したのだと思います。

「あなたのムスメさんは私が今まで見たアペール症児の中でも重度なケースで、額が突き出ているのではなく顔面が著しく陥没しているから不自然な顔になっているのだ。」とやや激しい口調で言われました。「脳が圧迫されるという危機から開放されたことが一番重要なのだ。あなたにはそれが分かっていない」とも。

もちろん、脳が開放されたことが一番重要だなんてことぐらい分かっていました。他の医者達からも同じことを何度も言われていましたが、このコメントを聞くたびに、だから他のことには目をつぶれ、顔なんてどうでもいいじゃないか、と言われている気がずっとしていました。将来的に美容整形したらいいじゃないか、些細なことだ、とはっきり言った医者もいたぐらいです。

確かに医学的に見たらそうんだなろうと思います。きっと彼らの言っていることは正しい。でも、一日にして我が子の顔ががらりと変わって見慣れないものになってしまう、それも、我が子に申し訳ないと思うほど酷く変わってしまうことが果して”些細なこと”なのかどうか私には分からなかった。それを些細なこととして片付けられる母親が果たしてこの世にいるのだろうか。

毎週同じような手術を2,3件もしている病院関係者にとっては、ムスメの手術もその他大勢の一つに過ぎないのだろうし、やらなくちゃいけないことをやったという彼らの態度は当然です。でも私はこの時、”近代医療”とか”最先端の技術”の前では、人は”人”と言うよりも”物”みたいに扱われてしまうんだな、という気がふとしたのでした。

この手術の向こう側に、酷く変わってしまったお顔でムスメが送らなければならない人生があること、愛していたムスメのお顔に二度と会えなくなった母親がいることは、彼らの視界にはない。でもそれはある意味当然で、そんなことを考えていたら外科医なんて仕事は絶対にできないのだろうし、彼らに私の想いをぶつけてもしょうがないことだとも頭では分かっていました。

こうして、相変わらず胸の中で激しく交差する様々な想いがあり、感情の収まる場所が上手く見つからない、思考の着地点が見出せない、そんな状態が続いたのでした。

この日の夜、ムスメは少し笑ったり、表情を変えたりと反応するようになりました。尿道に通されていたカテーテルも外されたため、まだ数本のケーブルには繋がれていたものの、ようやく抱っこさせてもらえました。

術後初めて抱っこしたムスメは、前のようにお顔をぴたっと私の胸にくっつけ、小さな手で胸をトントンとしたり、ぎゅっと握ったり、腕を首に回して抱きついてきたりしました。前と同じいい匂いがして、前と同じ抱きつき方をするムスメの暖かさを体に感じ、溢れる愛情と喜びに胸が一杯になりました。ああ、前と同じムスメだ、とこの時ようやく思えて涙が出ました。

でも、暗がりで私を見上げるムスメの、すっかり変わって落ち窪んでしまった瞳と目が合った瞬間、激しい違和感と悲しみに押し潰されそうになりました。見慣れないお顔、我が子とは思えないほど変わってしまった目元・・・。

ムスメは、一度抱っこされたらもうベッドには戻りたがらず、夜通しぐずって抱っこをせがみ続けました。そんな我が子を抱き続け、お歌を歌ったり、手遊びをして過ごしました。一睡もできない状態で明け方にはくたくたになっていましたが、以前の生活のようにムスメと一緒に遊んだりできたことに大きな満足感がありました。

この夜のことは、きっと生涯忘れられないと思います。数日間まともに触れられなかったムスメを再びこの胸に抱けた感動と、暗がりで目が合うたびに必死で涙をこらえたムスメの新しいお顔。私の胸の上でとくんとくんと鳴るムスメの鼓動を感じながら、この子が生きていてくれることに深く感謝しながらも、この先のムスメの人生を案じ、喜びと不安と切なさの狭間で心が揺れ続けた夜でした。