アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

泣き虫セドリックの卒業まで その1

我が家のお兄ちゃんセドリックについてだいぶ長いこと書いていませんでしたが、しっかりガッツリ成長しています。

出会った頃はまだ5歳の誕生日前で、靴下一つ自分で履かない甘ったれで我がままだったセドリック(「パピー履かせて!」と毎朝叫んでいた)。時の経つのは早いもので、先月9歳になり、繊細な心は残したまま、なかなか観察眼の鋭い賢いお兄ちゃんに変貌を遂げつつあります。

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出会った頃(5歳)。                        

いやぁ~、ちっこい&可愛い!!                  

こんなおチビ相手に本気になって喧嘩していたのか私は・・・あぁ、恥ずかし~!                    

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すっかり少年(青年?)の表情の今。

好奇心旺盛で大の本好き、実験好き。

彼の鋭い意見にダーリンともども「おおぉ」とひるむことも多い今日この頃。

学年にするとまだ小学校4年生ですが、こちらの国で9歳といえばもう少年と言うよりも青年期の入り口に立っている感じがします。相変わらず細身で華奢なものの、以前は私の胸当たりまでしかなかった身長が、今では顎あたりまで余裕で届き、ぐんぐん追いつかれてるな~と内心どきどきしています。

透き通った青い目は変わらないけれど、暗めの金髪だった髪の毛が少し赤毛っぽい色になってきました。そしてたま~に繋ぐ手がとっても大きくなってきて、こんな「大きな手なんて、私の知ってるセドリックの手じゃないわ」と言うと、嬉しそうに笑います。

精神的な成長で顕著なのは、泣かなくなったこと。これまでは他の子が怒ってつっかかってくるだろうところ、セドリックは怒って、悲しくなって、涙がこみ上げてきて、何も言えずに部屋に駆け込んでバタンとドアを閉めるというのがいつものパターンでした。

ゲームで負けたら泣く、からかわれたら泣く、誤解を受けたら泣く、理不尽なことや狡いことをされたら泣く。逆に、自分がやったズルを暴かれた時にも泣く。言いたい言葉が涙に押されて口から出ず、喉の奥に詰まってしまう。だから息が苦しくなって、しゃくりあげて、伝えられないから一人になりたくなって、部屋に閉じこもってしまう。

そんな泣き虫セドリックが劇的に変わったのは、実は今年に入ってからのこと。振り返ってみると、8歳から9歳に変わるこの1年の彼の成長は、これまでの数年間とは比べ物にならないほど大きなものでした。そして、それには理由があったのです。

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セドリックがクラシックバレエを習っていることは以前書きました。彼のバレエへの情熱は今も変わりません、が、「男のくせにバレエを習っている」という事実が学校で広まると同時に、彼の立場はどんどん変わっていったのです。

こうした偏見は日本でも世界のどこでも多分あるでしょう。でも、「マッチョ」「マチスタ」の本場ラテンアメリカでは事情は少し深刻になってきます。

この「マッチョ」という言葉、「男らしい」とか「男っぽい」と訳せますが、「マチスタ」というと「男尊女卑」とか「男らしさを誇示する」とネガティブな訳になってきます。

実際には、日本語の「男尊女卑」とラテンアメリカの「マチスタ」とは似て非なるものと個人的には解釈していますし、語り始めればとても奥が深いのですが、簡単にまとめるなら「男と女を極端に区別し、ことさら男らしさを強調する」と言うところでしょうか。

ラテンアメリカの中でも超マッチョなお国柄といえば、例えばメキシコ。自分の彼女にミニスカートをはかせないほど(他の男に彼女の足を見せないようにするため)マッチョな男たちが沢山います。それに比べればヨーロッパ移民の多いアルゼンチンはマッチョ度の低い国だと思っていました。

ところがよくよく話を聞いてみると、体育の時間に男子はサッカー、女子はバレーボールをやるのが当然で、サッカー嫌いのセドリックがバレーをやりたいと先生に言ったら「バレーボールは女のスポーツだからダメ」(??)と一蹴されてしまうような、不思議な現象がやっぱり存在するのでした。

そんな国にいて、男がクラシックバレエをやっているという事実が致命的ないじめネタになることは、当初から容易に想像できていたことです。だから私達もピカ(セドリックのお母さん)も心配してきたし、「学校の子達には言いたくない」と本人も口をつぐんできたわけですが、この小さい街では同じ学校に通う何人もの女の子がバレエスクールに通っていたため、次第に噂は広まっていき、時間と共にセドリックへの風当たりはどんどん強くなっていたのです。

でも、私達はそんな状況を全く知らずにいました。全てを知ったのは、学期末も近づいた12月のある週末の夜、いつものようにセドリックを我が家に連れてきたピカから突然「話がある」と言われた時のこと。私とダーリン、そしてうなだれたセドリックがテーブルにつくと、やや興奮気味のピカが初めて事情を話してくれました。

曰く、セドリックへの学校内のいじめがエスカレートしており、最近では顔やお腹を殴られたり、おやつを取り上げられて捨てられたりしている。友達もどんどん離れていき、最後に一人残った友達も「もうこれ以上一緒にいられない。自分もいじめられるから」と離れていった、と。

ピカはなぜかそれまでダーリンにも相談せず、一人で担任教諭や学校長と話し合いを持とうと努力していたそうですが、学校側からの対応も返答も全くないためしびれを切らし、遂にはセドリックとも話し合った結果”転校”という決断に達したのだと告げられ、あまりに突然な話に私達も言葉を失ってしまったのでした。

確かに、毎週末我が家で過ごすセドリックから「学校の子に嫌がらせをされた」と聞いたことはわずかながらありました。気になって理由を聞いたりもしていましたが、彼自身あまり話したがらず、後日こちらから改めて尋ねても途中で会話が途切れて実情が見えてきませんでした。

ダーリンにいたっては、子供同士よくあることだろうと全く気にも留めずにきたので、ピカから転校の話が出た時にはかなりの衝撃を受け、「なぜ自分に何も言わなかったのか」と、息も荒く語るピカと、うつむいて一言も口にしないセドリックを前に途方に暮れた顔をしていました。

この頃のセドリックは、正直とても難しい子でした。とにかく態度が生意気で、口を開けば「そんなの知ってる」「当たり前だろ」「分かってるよ」という返事。大人の会話にも口を出し、彼の知るはずのない政治的なテーマにまで「当然だよ」などと答えるに至っては私達も苛立ち、「知ったかぶりするな!」「そんな口の利き方しないの」と諭さずにいられない場面も多々ありました。

他にも、すぐにばれるような嘘をすぐに口にする、何かを指摘されると言い訳したり、パパのせいにしたりと自分の非を認めない、面倒くさがりでやりたくないことは何度いわれても一切手をつけないなど、一般的に”手の焼ける子”と言われるだろう条件を全て満たす態度の悪さ。

おばあちゃん(ダーリンのお母さん)に対する態度ともなると、もう目も当てられないほどで(これはおばあちゃん側の原因も大)、「ばあちゃん黙ってよ」なんて偉そうに口にした日にはぶち切れたおばあちゃんと怒鳴り合いの大喧嘩に発展する一幕も(ラテン人ファミリー的展開)。

ムスメが生まれるまで一人っ子として育ち、躾が苦手の超甘甘なダーリンに甘やかされてきたセドック。まだまだ一人では何もできないけれど気分だけは一人前の中途半端な年頃に差し掛かってもいる。この先どうなるかな、と心配しつつ密かに観察していましたが、こうして週末家族で集まるごとにセドリックが原因で最悪な雰囲気になってしまうため、正直この頃はセドリックの顔を見るのがちょっと辛かったほどでした。

ちなみに、離婚家庭の子だからぐれる、という方程式はここにはありません。これはまた別の機会にぜひ書きたいと思っていますが、日本で言うところの「崩壊家庭」はある意味アルゼンチンではとても一般的。両親が離婚している、祖父母が離婚しているなんて普通過ぎて今更誰も驚きませんし、子供達も週末や平日別れた両親の家を行ったり来たりして屈託なく育つので、「片親」に育てられるという発想もありません。

そんなわけで、やはりセドリックのこの難しさは年齢のせいなのだろうと解釈していましたが、後になって、この頃の彼が学校でのイジメなどで精神的に酷く不安定な状態にあったのだと分かりました。

さて、この突然の転校話し、決着が付くまで少し時間が掛かりました。と言うのも、私とダーリンが反対したからです。なぜなら、セドリックへのイジメが「バレエをやっている」ことに端を発したのは間違いないでしょうが、ここまで事態が悪化したのはバレエのせいだけだとは思えなかったのです。果してセドリック一人が可哀想な被害者で、他の子供達全てが悪魔のような子達なのか。むしろ、この頃のセドリックを見ていると、彼の方にも他の子供たちの神経を逆撫でする多くの問題があるのだろうと推測せずにいられませんでした。

もしも今回のイジメがセドリックの態度にも起因するものなら、たとえ転校しようとも同じ問題が遠からず起こるはずだ、と、私も懸念していた点をダーリンは二人にきっぱり告げました。そしてこの時初めて知ったのですが、実はもっと以前にも似たような事情で既に一度転校したことがあったのだそうです。

セドリックはベルギーで生まれ、3歳の時にアルゼンチンへ引っ越してきました。今では生まれた国の言語も全く思い出せず、ベルギー時代の記憶も定かではないと言いますが、5歳の時には里帰りしているし、ベルギーからおじいちゃんおばあちゃんも遊びに来たりするし、そこはやっぱり他のアルゼンチンの子供達とは少し違う環境にあります。

サッカーが嫌いだったり、赤やピンクなど綺麗な色が好きだったり、私の趣味の民族織りや編み物に興味あったり、折り紙が大好きだったりするところも一般的なアルゼンチン人の子供とは違うところ。その繊細さはどことなくヨーロッパの子という印象でもありました。それが、”異なるモノ”に敏感な子供社会でつまはじきにされてしまう理由の一つであるのは想像できます。

でも、この頃のセドリックを見ていると、「自分は特別」という自意識が態度にも表れているようで、それが他の子達の鼻についてもいたのでしょう。知ったかぶりもそう。嘘をつくのもそう。人に優しくないのも、いつも自分自分と主張するのも、好きじゃないことや好きじゃない人を前に態度がものすごく悪くなるのも、誰の目にも良くは映っていなかったはず。

ピカは「この冬休みの間に欠点の改善を徹底的にさせるから、新しい学校で新しい人生を始めさせてあげたい」と主張し、私とダーリンは「欠点の改善が一朝一夕に出来るとは思わない。根本的な問題の解決なしに転校させ続けても、負け癖が付くだけで同じことの繰り返しになる」と返答し、結局この日の会話は平行線のまま、結論を見ずに終わったのでした。

私がこの日一番気になったのは、セドリック本人が全く口を開こうとしなかったこと。イジメの内容も、学校での様子も、普段からおしゃべり大好きのピカが全て代弁していましたが、ピカは当事者じゃない。ダーリンも同じ想いを抱いたようで、「セドリックの口から事情を聞きたい」と促したところ、いつもの偉そうなところはすっかり影を潜め、泣きそうになって言葉が喉の奥に詰まってしまい、ぼそぼそとつぶやくばかりで埒が明かず・・・。

この日以来、ダーリンは学校長と直接話しに行ったり、セドリックとも多くの会話を重ねたり、彼の日ごろの態度にも以前より細やかに対応するよう気をつけるようになりました。これまでの躾下手(叱れない)が災いしたことにも気づかざるを得ず、セドリックのよろしくない態度や言動に「待った」をかけるようにもなりました。そして、それがなぜいけないのかを丁寧に説明するようにも。

最初は「パパは僕ばっかりが悪いと思ってる」とか「パパも僕がバレエをやっているのがイヤなんだ」などと反発していたセドリックでしたが、ダーリンの対応に以前よりお父さんにしっかり向き合ってもらえている、と感じるようになったのでしょう。徐々に彼の態度が落ち着きを取り戻し始めたように見えました。

そして迎えた12月の終了式。腹痛を理由にこの節目の日にまで学校を休んでしまったセドリックを見て、もはやこれまでか、、、と私達も彼の転校の可能性を模索するようになったのです。

つづく