アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

私とダーリンとセドリックの想い

ムスメが生まれて早くも3週間が経ちました。帝王切開3日後に退院し、その日から今日まで一日の休みもなく病院に通うちょっとハードな毎日で、私の体力の限界はとっくに超えている気がしますが(若くないし・・・!)、ムスメ愛しさに何とかやっていけている感じです。

今日までの間、ムスメの状態は一進一退で、保育器からベビーベッドに移されたかと思えば、再び状態が悪くなり保育器へ戻される、の繰り返しです。一番の問題は呼吸の不安定さ。小さな鼻と、亀裂の入った上顎、その他諸々の条件が重なって、なかなか上手く呼吸ができずに時折体内酸素量がが~っと減ってしまうのです。

今はまた鼻に酸素の管をつけることになってしまったし、呼吸が安定しないことには哺乳瓶での授乳も出来ないため、母乳も相変わらず管を通して与えている状態です。息をすること、食べること、この二つがクリアできないことには退院はありえず、今日も主治医のイルダに「長い道のりになると思うわよ」と言われ、ほぉ~っと深いため息をついたところです。

もう一つ新たに分かったことは、ムスメの頭蓋骨は中心部にこそ隙間があり、脳が育つスペースがありますが、側頭部(こめかみ辺り)の骨がやはり癒着しているようで、月齢2ヶ月半~3ヶ月の間に切り開く手術が必要とのことです。そうなると恐らく4月頃に最初の手術となりそうです。あんなに小さな体が手術台にポツンと乗っかっている姿を想像することができなくて、とてもとても悲しくなってしまいましたが、こんな状況に私も慣れていかなければならないのでしょう・・・。

とは言え、ムスメの日常は割りと平穏です。目が覚めている時は抱っこして、思いつく限りの童謡を歌って聞かせていますが、そうするとおっきな目をくりくりと動かしてじ~っと聞き入っています。「大きな栗の木の下で」や「結んで開いて」などを歌いながら手や足を動かしてあげると、ご機嫌でぶんぶん足を振り回し始めます。新生児集中治療室の片隅で、おかしな言語で歌を歌う母と、それに合わせてじたばた手足を動かすムスメの姿は看護士さんたちにも知れ渡り、今では関係者皆が私達をとっても親身にサポートしてくれるようになりました。

イルダ医師も、何人もの赤ちゃんを担当してはいるものの「この子が一番可愛い」と公言して憚らず、プレゼントを買ってきてくれたり、私が病院に行くとムスメを抱いて遊んでいてくれたりと、何かと可愛がってくれています。「NEO(新生児集中治療室)のおばあちゃんだね」と私が言うと、「そうよ」と言ってムスメにキスの雨を降らせていました。

ムスメが生まれて以来、周囲の反応を見るにつけ、障害児に対する感覚が日本とはまた違うのかな、と思い始めました。ムスメが障害児だった、の一報を受けて駆けつけてくれた友人やダーリンの家族がまず心配していたことは、「生き延びられるのか」であって、障害児であったことそのものはむしろ二の次だったように思います。ムスメの障害は決して軽いものではないし、指がくっついていたりと見た目的にも衝撃を受けるんじゃないかと思ったのですが、そうしたいわゆる”容姿”を嘆く人が殆どいなかったのは印象的でした。

「命に別状無し」と分かった段階で皆が安堵し、幾つかの障害に関しては「何とかなる」「大したことではない」「この子のための人生がある」とかなり寛容で楽観的な見方がほとんどだったのには、私の方が驚いたぐらいです。恐らく、ムスメの容姿に一番ひっかかったのは、他ならぬ私自身だったのではないでしょうか。

私の正直な気持ちを告白すれば、可愛い女の子を産んで皆に祝福して欲しかった。自慢のムスメに育てたかった。ダーリンによく似た瞳を持つハーフの子。きっと背が高くてほっそりしてて色白で、とっても可愛い子になるだろうと思っていました。そして、ムスメにはこんなことをして欲しい、あんなことにチャレンジして欲しいという願望が早くも沢山ありました。

今振り返ってみると、障害児として生まれたムスメを当初受け容れられないと感じたのは、私自身のそんな見栄や期待やプライドのせいだったように思います。

もしもムスメが健常児として生まれていたなら、そんな私の願望を思いっきり押し付けていたかもしれません。それでいつかムスメと仲たがいしていたかも・・・。でも今は、ありのままのムスメをそのまま愛してあげることしか私にはできません。これは私にとってのある種の課題だったような気が今ではしています。

もう一つ私が飲み込めなったこと。それは、どこで生活するのか、何を仕事とするのか、誰と生きていくのか、など、人生の中で大事なことは常に自分で決断して選べるものとこれまで信じてきました。ところが、自分の一生を左右する「子供」に関しては、自分では一切選べないという当たり前の事実を前に、受け入れがたさと無力さを感じたのです。

「可愛い健康なムスメが欲しかった、と思うことは悪いことだろうか」と、出産直後にダーリンに聞いたことがあります。その時ダーリンに言われました。「悪いことじゃないけれど、何もムスメに限らず、いつだって親は子供を選べないってことを分かっていないとね」、と。

スポーツ選手になって欲しかったのに運動オンチだったとか、男らしい子に育てたかったのに体が弱かったとか、背が高い子が良かったのにちびだったとか、金髪が良かったのに黒髪だったとか・・・果てしない親の願望を満たすような子を、親が選べるかといえばそれはない。ムスメの場合は障害を持って生まれてきたけれど、健常児であったとしても、親の望むような子になるかと言えば決してそうじゃないし、それでも愛して育てていく、「それが子を持つということなんだ」って。

それを聞いて、私の中でストンと何か腹に落ちるところがありました。

こんな風に私にとって、既に息子を育ててきたダーリンの言葉は胸に響くものがあるのですが、実はムスメ誕生後に多くの感動をくれた人がもう一人います。それはなんと、6歳のセドリックでした。

そもそも、ムスメが誕生しているにも関わらず、なかなか事の詳細を知らされなかったセドリックは、密かに怒っていたそうです。ムスメ誕生の2日後、遂に痺れを切らしたセドリックはピカ(彼のお母さん)に「妹ちゃんは生まれているんでしょう?」と尋ねました。ピカが「生まれているけど、問題があるの」と答えたところ、「全ての問題は解決できるから大丈夫だよ」と。「でも妹ちゃんの場合は解決できない問題もあるのよ。他の子とはちょっと違う子になるの」と教えたところ、「全ての人が皆それぞれ違うじゃん!僕は妹ちゃんがどんなんでも構わない。一緒に遊ぶだけだ!」と答えたのだそうです。

その後、ダーリンがムスメ誕生後初めてセドリックに会いに行ったところ、そこでもセドリックは怒ったそうです。なぜなら、パパも皆もとても悲しそうだったから。「僕が妹ちゃんだったら、せっかく生まれてきたのに皆が悲しそうだったらすごく嫌だ。もっと喜んでお祝いして欲しい」、と・・・。子供の感性って素晴らしい!!私はその話しを聞いてボロボロ泣いてしまいました。

更にある日の夕食の席のこと。ダーリンとセドリックと3人でご飯を食べていたところ、ダーリンのお父さんから電話がかかってきました。その会話をじーっと聞いていたセドリックは、電話を切ったダーリンに、「誰から?」と尋ねました。「おじいちゃんからだよ。妹ちゃんは元気かって」とダーリンが答えると、「でも、アマンダが元気かって聞かなかったでしょ」とするどい突込みが・・・。そして、真面目な顔をして私のことをじっと見ながら、「妹ちゃんを産むために一番頑張ったのはアマンダなんだから、アマンダは妹ちゃん以上に皆に大事にされるべきだ」と言ったのです・・・!!

実は、このダーリンとお父さんの会話を聞いていて、やっぱりここでは皆がムスメのことを心配しても、私のことを心配する人はいないんだな~とちょっと自虐的な気持ちになっていた私。身近に家族のいない寂しさを日々感じていた矢先のこのセドリックの発言に、私はびっくりするやら感動するやらで一瞬言葉を失い、その後にはまたしても涙がボロボロと・・・。

私と一緒に暮らし始めたころのセドリックは、もうすぐ5歳になろうというのに靴下一つ自分ではけない甘ったれの坊やでした。それが、一体いつのまにこんなに大人になったんだろう!?と目からウロコが落ちる思いでした。ダーリンもこのセドリックの発言にはどっきりした様子。でも一瞬の後に、「あ~、上手くアマンダに取り入ったな~」と冗談めかして頭を小突き、小突かれたセドリックも照れくさそうに笑っていました。

実際、出産前からセドリックの私への気遣いにはとっても暖かいものがありました。横になって休んでいる私の所に来ては足や背中を揉んでくれたり、あんなに人と物を分かち合えない子だったのに、大好きなフルーツやチョコレートを「これはお腹の中の妹ちゃんの分」と言って私に余計にくれたり。出産後には顔つきまでが少年らしくなり、私の荷物を持ってくれたり、近寄って来ては小さくなったお腹にキスして「お腹ちゃん小さくなったね~」ってなでてくれたり。

ムスメとの初めての対面では、くっついた手足の指にややひるんだ様子だったものの、ムスメの病状について詳細に知りたがり、「いつになったら良くなるの?」「妹ちゃんのことが心配だ」「妹ができて嬉しい」と、面会時間中ムスメに付きっ切りでした。

そして先日、私がとっても疲れた顔で病院から戻ってきたところ、不意に「アマンダは時間を撒き戻して他の赤ちゃんと妹ちゃんを取り替えたいって思う?」と聞いてきたのです。そして私が「今時間が巻き戻せても、私は取替えたいと思わないよ」と答えると、納得したような、満足したような顔をしてうなずいていました。

こうして、私もダーリンもセドリックも、それぞれが様々な想いを抱きながら4人家族になっていくのでしょう。このブログのタイトルも、「アルゼンチン4人暮らし」にそろそろ変えないと、またセドリックに怒られそうです。

ちなみに、私とダーリンの子供はムスメが最初で最後になりそうです。優性遺伝によってアペール症の子が生まれた場合、次の子も同様の疾患を持って生まれる確率は50%もあるそうなので・・・。もちろん今はまだ次の子について考えられるような状態でもありませんが。何はともあれ、ムスメは、一発で妊娠して私達のところに来てくれた子で、それはもうずっと前から決まっていたことのように今では思います。

「赤ちゃんは全能だから任せておけば大丈夫」と言ってくれた友人Mちゃんの言葉どおり、こうして家族皆でムスメを慈しんで育てていくことできっと道が開けていくことを信じて、病院通い頑張ります。