アルゼンチン暮らしIROIRO

アルゼンチン在住ライターの日々の想いイロイロ

またいつか

6月14日、大切な友人がこの世を去りました。

癌で3年間の闘病生活を経てのこと、、、だったそうです。

私は彼女の病気のことを、彼女が亡くなった翌日に知らされました。

 

複雑な生い立ちを持つ彼女は、類を見ない繊細さと激しい気性を合わせ持ち、時には天真爛漫にはしゃぎ、時には溢れる愛情を見せ、また時には救いようもないほど真っ暗な闇に身を投じてしまう振れ幅の大きい人で、、、それでも20歳ごろに出会って今日までの20数年間、私にとっては最も身近な友人の一人でした。

 

お互いに10代後半から悩んだり迷ったりの繰り返しでしたが、これほどまでに己の内面について語り合った友人は珍しく、数え切れない会話を重ねた相手です。行き先の知れない、少し苦しかった青春時代を共に過ごした戦友という感じでしょうか。

 

スラリと背が高く、しなやかな手足に綺麗な長い指が印象的な人でした。とてもセンスが良くて、いつも個性的でお洒落で、道を歩いていても思わず振り返りたくなるような雰囲気を持っていました。音楽やアートに関して敏感なアンテナを持っていた彼女は、私にとって文化の窓でもありました。彼女は私の憧れであり、同時に心配の種でもありました。そう、彼女の悩める魂を、私はいつもどこかで常に心配していた気がします。

 

繊細な彼女の地雷が解らず、彼女を怒らせたことも何度もありました。彼女の特異な思考回路は私の想像を遥かに超えていて、その難しさに直面してはたじろぎ、接し方がわからずに悩んだこともありました。歳を重ねるごとにスピリチュアルな世界に深く傾倒して行く彼女を不安に思ったこともあります。私自身はスピリチュアルなものとは程遠い極めて現実的な人間なので、彼女の世界観を理解するのに苦しんだのも事実です。

 

そんな彼女と最後にやり取りしたのは、ちょうど3年前のことでした。私もムスメの手術続きで疲れていた嵐の時代。私のメールに突然怒りを爆発させた彼女の態度に困惑し、もう腫れものを扱うように接するのはやめようと決意し、初めて彼女の怒りに真っ向から反論した結果、連絡を断つことになりました。

 

私の最後の言葉は、「幸せになって欲しい。あなたのやり方でいいから」。

彼女の最後の言葉は、「お互いに人生を謳歌しましょう」

 

今思えば、彼女の病気が発覚する直前か直後のことだったはずです。

 

告白すると、訃報を受け取った瞬間頭をよぎったのは、彼女の自殺でした。あまりにも突然のことで、ものすごい衝撃を受けたものの、もしそれが彼女の見つけた答えで、彼女が死で解放されたのならそれもまた救いかもしれないと思ったのです。

 

でも、癌で3年もの間闘病していたと知り、あんなに苦しみながらも最後まで生きようと頑張っていた彼女を思った時、身体中から力が抜けて、涙が枯れるまで泣きました。

 

私は、闘う彼女のことをなに一つ知らず、応援もできなかった。彼女が死力を尽くした最後の3年間、全くの不在だった。友人と喧嘩別れなんてしたことのない私が、たった一度だけ絶った絆は、ちぎれたまま幕切れとなってしまいました。この後悔は、生涯私の胸に突き刺さったままになるはずです。

 

頑なな彼女は、3人のお友達にしか病気のことは伝えなかったそうです。そのお友達の一人に、私と喧嘩別れしたままになっていることを話し、でもいつかまたきっと会って話せると思っている、と言っていたそうです。私も、、、、、、喧嘩別れした後も、いつもそう思っていたし、今もそう思っています。またいつか、きっと彼女と会えると。そうしたら絶対に、黙って逝ってしまったことの文句を言おう、と。

 

彼女が亡くなってから、彼女とやり取りした数え切れないほどのメールを一つ一つ読み返しました。どのメールにも「いつも愛してる」「あなたなら絶対に大丈夫」「あなたはいつも守られているから」と励ましや愛情が溢れていて、、、バカな私はやっと気がつきました。私が彼女を心配していたというよりも、彼女のほうこそ、いつも私のことを肯定してくれていて、全身全霊で応援してくれていたことを。こんな私を、心から愛してくれていたことを。

 

ごめんね、さくら。一緒に闘えずにごめんなさい。

20数年間の友情と沢山の愛情をありがとう。本当にありがとう。

 

あなたがとても恋しい。

またいつか、きっと会おうね。